底でそれぞれの仕事の持ち場についた。
ボイラーは、ハッチの口よりも長かったので、非常にその作業は困難であった。けれどもその日の夕方には、三本のボイラーをうまく無事に積みおろすことができた。
さて、それから、万寿丸は、高架桟橋の、石炭|漏斗《じょうご》の下へ、そのハッチの口を持って行かねばならなかった。
三〇
ボイラーが、艀《はしけ》へ積み込まれるとすぐに、わが万寿丸は、高架桟橋へ横付けにするために、錨《いかり》を巻き始めた。
錨を巻き始めると、おもての室の中は、一切合財がガラガラにゆるんでしまいはせぬかと、気がもめるほど震動した。とどろきわたった。ボーイ長は、その弱った神経がこわれるのを、心配するような格好で、耳に栓《せん》をするのだった。
水夫室のまん中にある蓋《ふた》をとると、その下は錨鎖のはいる箱(チエンロッカー)になっていた。それはすっかりの鎖が出切った時、そこの広さは、横六尺、縦六尺五寸、高さ十尺ぐらいであった。そして、それが二つ並んでついていた。上で巻き上げる鎖は、デッキの穴を通って、この箱の中へ送り込まれるのであった。それをこの箱の中では、波田が、一々、鎖を順序よく並べなければならなかった。そうしないと、鎖が穴の下へたまってつかえてしまうのである。
波田は、この箱のドブドブの中へ、カンテラをさげてはいるのであった。そして、金棒の先の鉤《かぎ》になったのを、落ちて来る鎖に引っかけては、順序よく並べねばならなかった。それは急がねばならぬし、力のいることだし、狭いところだし、ぬれていてすべることだし、暗くはあるし、油煙は立つし、息苦しくはあるし、そして、また、時々鎖から鉤がはずれると、肘《ひじ》で後ろの壁を力一杯つき飛ばすのであったし、鎖が一杯になって来ると、彼は、鎖の中に危うく身を構えて、それにはさまれぬように作業しなければならなかった。これは一航海に一度でもうんざりする仕事であった。それを、彼は、昨日《きのう》の朝から、二度目であるのだ。
波田は暗い顔をして、チエンロッカーへおりて行った。彼は全く、それへはいる時は地獄《じごく》へおりて行くような気がするのであった。
彼はチエンロッカーについて悲惨な物語を聞いていたが、それは、いつでも彼がチエンロッカーへはいる場合に、彼の記憶の中から、ムクムクと起き上がって来ては、彼を脅《おど》すのであった。
それは一九一〇年代の事であった。英領植民地のシンガポーアの、マレーストリートとバンダストリートとの二街に、赤色|煉瓦《れんが》の三階建ての長屋が両側二町余にわたって続いていた。その長屋は全部日本人の娼婦《しょうふ》のいる家であった。そこは、わが国の大都会、たとえば、横浜とか神戸とかにおける遊郭よりも、数も多く、規模もはるかに大きかった。そのころは船員はゴロツキが多かった。それはほん者のゴロツキであって、陸を食いつめた博徒《ばくと》などが、船乗りになっていた。そして、船長などというのもいかがわしいのが多く、これらの船員と結託しては密航婦を、シンガポーアだとか、ホンコンだとか、またはアントワープだとかの遠方までも、大仕掛けで輸送したものだ。その運賃は高率であって、それに食費は向こう持ちであって、おまけに船員が航海中最も悩むところの性欲に対して、密航婦を積む以上、好都合なことはなかった。
密航婦はどんな状態でも、我慢しなければならなかった。哀れな彼女らは、フォーアピークの中で、窒息して死んでしまったほどにも、我慢しなければならなかった、彼女らはビール箱の中で五昼夜も、いいようのない状態で、半死のどたん場まで我慢しなければならなかった。
ことにチエンロッカーと彼女らとの関係は惨鼻《さんび》をきわめた。それは、密航婦を船長とボースンとが共謀で、チエンロッカーの中に隠したのであった。チエンロッカーは、出帆したが最後、入港までは用のないところなのだ、その暗室の鎖の上へ彼女らは、蓆《むしろ》を敷いて寝ていたのだ。彼女らはシンガポーアで上陸して、その遊郭に売られるのであった。水火夫らは毎夜、そのチエンロッカーの蓋《ふた》をあけてやった。彼女らは、運動に出された禁錮囚《きんこしゅう》のように喜んで、おもての船員たちの室へ来て出してもらった礼として、(以下十一字不明)。
彼女らにとっても、その航海はビール箱や、フォーアピークなどよりも、**であったに違いなかった。船員たちは浮かれ気味の航海を続け、彼女らは一日も早く、動揺しない大地を踏みたいとねがっていた。
ところが、ホンコン入港の時に、密航婦を、フォーアピークへ移しかえることを忘れなかったボースンは[#底本では「忘れなかった。ボースンは」と誤記]、何と考え違いしたものか、大切のシンガポーアで、有頂天になり過
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