でわけがわからなかった。
これらは息をつく間もない瞬間に一切が行なわれた。そして、本船はグッと回った。波田も西沢も、船長までもが、そのなれにかかわらずよろめいたほど急速に。そして、今にも衝突しそうに思えた、山のような怪物、(それは軍艦だと波田と西沢は思っていた)は全速力をもって、まるで風のように左舷《さげん》の方へ消え去った。と、その怪物からは続けざまにドンドンドンと轟然《ごうぜん》たる砲声が放たれた。
哀れなる小犬のような、わが万寿丸は、今は立ちすくんでしまった。いわば、腰を抜かしたのである。むやみに非常汽笛を鳴らし、救いを求め、そこへ錨《いかり》をほうり込んだ。
今、それほど万寿丸を驚かした、軍艦のように速力の速い怪物は、百年一日のごとく動かない大黒島であり、大砲は霧信号であった。
わが万寿丸はその二十|間《けん》手前まで九ノットの速力で、大黒様のお尻《しり》の辺をねらってまっしぐらに突進して来たのだった。
あぶなかった。錨がはいると、皆は、期せずしてホッとした。
大黒島の燈台では、乱暴にも自分を目がけて勇敢に突進して来る船を認めたので、危険信号を乱発したのだった。幸いにして、この無法者は、間ぎわになってその乱暴を思い止《とど》まった。
万寿丸は「動いてはあぶない」とばかりに、立ちすくんだ盲人のように、そこに投錨《とうびょう》して一夜を明かすことになった。
奇妙きてれつなる一夜であった。船も高級船員もソワソワしていた。おもてのものだけは、一夜を楽に寝ることができた。
二六
翌朝万寿丸は、雪に照り映《は》えた、透徹した四囲の下《もと》に、自分の所在を発見した。それはすこぶる危険なところへ、彼女は首を突っ込んでいた。
船員たちは、自分の目の前に、手の届きそうなところに、大黒島の雪におおわれた、[#「、」は底本では「。」と誤記]鷲《わし》の爪《つめ》のような岩石に向き合っており、左手に一体に海を黒く、魔物の目のように染める暗礁《あんしょう》を見いだした。
彼女は、その醜体を見られるのが恥ずかしそうに、抜き足さし足で早朝、何食わぬ顔をして、室蘭港へはいった。
すぐに石炭積み込み用の高架桟橋へ横付けになるべきであったが、ボイラーの荷役の済むまでは沖がかりになるので、室蘭湾のほとんどまん中へ、今抜いたばかりの錨を何食わぬ顔をして投げた。
万寿丸が属する北海炭山会社のランチは、すぐに勢いよくやって来た。
とも、おもてのサンパンも、赤|毛布《げっと》で作られた厚司《あつし》を着た、囚人のような船頭さんによって、漕《こ》ぎつけられた。沖売ろうの娘も逸早《いちはや》く上がって来た。
水夫たちは、ボイラー揚陸の準備前に、朝食をするために、おもてへ帰って来た。
食卓には飯とみそ汁と沢庵《たくあん》とが準備されてある。一方の腰かけのすみには、沖売ろう――船へ菓子や日用品を売り込みに来る小売り商人――の娘が、果物《くだもの》や駄菓子《だがし》などのはいった箱を積み上げて、いつ開こうかと待っているのであった。
船員は、どんな酒好きな男でも、同時に菓子好きであった。それは、監獄の囚人が、昼食の代わりに食べるアンパンを持って通る看守を見て、看守はアンパンが食べられるだけ、この世の中で一番幸福な人間だと思うのと同じであった。監獄と、船中においては、甘いものは、ダイアモンドよりも貴《とうと》かった。
波田は、その全収入をあげて、沖売ろうに奉公していた。彼は、船員としての因襲的な悪徳にはしみない性格であったが、「菓子で身を持ちくずす」のであった。彼はきわめて貧乏――月八円――であった。それだのに、彼は金つばを三十ぐらいは、どうしても食べないではいられないのであった。しかし、財政の方がそれほど食べることを許さないのであった。彼は沖売ろうがいっそのこと来ねばいいにと、いつも思うのであった。そのくせ沖売ろうの来ない日は、彼は元気がないのであった。全く彼は「甘いものに身を持ちくずす」のであった。
この場合においても彼は、ソーッと、自分の棚《たな》から、状袋を出して、その中に五十銭玉が一つ光っていることを見ると、非常な誘惑を菓子箱に感じた。
「どうしてもおれは仕事着と、靴《くつ》が一足いるんだがなあ」と考えはした。彼は、その全収入を菓子屋に奉公するために、仕事着は、二着っきり、靴はなく、どんな寒い時もゴム裏|足袋《たび》の、バリバリ凍ったのをはいていた。そして、ボースンの、ゴム長靴のペケを利用して、その脛《すね》の部分だけを、ゲートル流にはいていたのであった。も一つ、彼が菓子以外にいかに金を出さないか――出せないかということを知るには、彼の頭を見ればよかった。まるでそれは「はたき」のように延びて汚《よご》れ切っていた。
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