排除する。
 彼は熱湯を打《ぶ》っかける前に、竹箒《たけぼうき》の柄をもって、猛烈に物理的操作を試みた。――物理的操作とはセコンドメートの口吻《こうふん》を借りたのである――そして、糞の分子と分子とがやや空隙《くうげき》を生ずる時において熱湯を――この時決して物惜しみしてチビチビあけてはならない、思い切って――どっと一時に打《ぶ》ちあけるのである。
 と、たちまちにして、はなはだしい臭気が、発煙硝酸の蓋《ふた》でもあけたように、水蒸気と共に立ちのぼる。そしてこの水蒸気が発煙硝酸と同じく、その煙までも黄色であるように感じられる。そして、この濛々《もうもう》たる蒸気と臭気とに伍《ご》して、ドーッと音がすれば、それは、汚物が流れ出した証拠である。もし不幸にして音が伴わなかった場合は、波田はそれと同じことを、幾度か繰りかえさなければならない。
 波田は、その熱湯を汚物の壺《つぼ》の中へ注ぐやいなや、彼は棒もバケツもそこへ打ち捨てて置いて、サイドから、汚物の飛び出すスカッパーの活動の状態をながめに行く。
 それはきたない仕事であった。そしていやな、困難な仕事であった。それはちょうどわれらが便所へかがむのと同様不愉快なことであった。それはまた、勢いよく、一切が飛び出すことは、われわれが便所へかがんだ時と同様、腹の中がきれいになることを意味し、かつ快いことであった。
 波田はスカッパーから、太平洋の波濤《はとう》を目がけて、飛び散って行く、汚物の滝をながめては、誠に、これは便所掃除人以外にだれも、味わえない痛快事であると思うのであった。
 「これでおれも気持ちがいいし、だれもがまた気持ちがいいわい」波田は、その着物を洗って乾《ほ》すために、罐場へ行った。
 そして彼は、その汚《よご》れた着物を洗う間に、「もし神があるなら、糞壺《ふんつぼ》にこそあるべきだ」と思った。
 「なぜならば、もし神や仏があるとしたならば、彼らが愛するところの人間が豚小屋に住み、あるいは寺院の床下に、神社の縁下に住む時に、どうして、自分だけが、そのだだっ広い場所を独占することができ得よう? もしそうしている神仏でもあるならば、それは岩見重太郎によって退治されねばならない神仏であって、決して真物《ほんもの》ではないのだ。今は、神仏よりも一段下であるべき人間でさえ、『万人がパンを得るまではだれもが菓子を持ってはならぬ』といっているではないか、神はまさに糞壺にこそあるべきだ!」
 波田によると神は恐ろしく、きたないところにもぐる必要があった。
 「おれは便所に神を見た。それ以外で見たことがない」と波田は、いつ、どこででも主張するのであった。
 「で、その神様は、おれのによく似た菜っ葉服を着て、おれより先にいつでも便所を掃除してる! それは労働者だった。賃銀をもらわない労働者の形をしていた!」と。
 「で、もし、神様が、労働者でもなく、便所にもいなかったら、おれは、とても上陸して寺院や社祠《しゃし》などへ、のそのそさがしになんぞ出かけてはいられないんだ。人間から現実のパンを奪って精神的な食べられもしない腹もふくれない、パンなんぞやるといってごまかすのは神じゃないんだ。それやブルジョアか、その親類だ」
 これが波田の宗教観であった。
 「その神様が賃銀を月八円ずつさえ得てれば、そのまま波田君なんだがなあ。惜しいことには、たった一つ違うんで困ったね」藤原はそういって笑ったものだ。
 船には、宗教を信ずるものは一人《ひとり》もいないといってよかった。ボースン、大工、この二人《ふたり》だけが、暴化時《しけどき》だけ寝台の下のひきだしの中から、金刀比羅大明神《こんぴらだいみょうじん》を引っぱり出して、利用した。彼らはもし、それらがいくらかでも役に立つなら、利用しなけれや「損だ」と習慣的に考えたのであった。
 板子《いたご》一枚下は地獄《じごく》である。超人間的な「神か仏」のような「物」にたよりたい気は、人には、特に船員などにはあり得たのであるが、しかも彼らはあまりにばかばかしい、それらのものを信じる気にはならなかった。宗教は今では全くくだらないものであるか、または、その正体をごまかすための神学や経典で、あいまいに詭弁的《きべんてき》に職業化されていた。宗教は今や高利貸や、マーダラーの手先になったり弁護人になったりすることによってのみその生命をかろうじて保っているにすぎなかった。
 話は飛んでもない傍路《わきみち》へそれたものだ。

     二五

 万寿丸は、室蘭の荷役を早く済まして、碇泊《ていはく》中そこで船のマストや何かをすっかり塗って、横浜へ帰って正月をする予定であった。そしてその予定は、一切のプログラムを最大速力でやって、順当に行けば、かろうじて大晦日《おおみそか》の晩横浜へ
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