うなドンキーは、また機関室へはいって、蒸気をウインチへ送らねばならなかった。火夫も火口に待っていねばならなかった。
 綱は少しずつ繰り延べられた。それは板の上へおろされるのであるならば、サンパンにかかっている鉤《かぎ》を、綱がゆるんだ時にはずしさえすれば、サンパンはそこに立派にすわっているのだが、それが波――ことにその夜のごとく、大きく鼓動している時――に向かっておろされる場合は、非常に困難であった。波の絶頂に上がった時に、一方の鉤だけをはずすならば次の瞬間には、そのサンパンは鮭《さけ》のようにつるされているだろう。それが、波の最低部にまでおろされることは、不可能であった。鉤がはずれるであろう。もし鉤がはずれなければ、本船のどてっ腹へその頭か、またはひよわいその腹を打《ぶ》っつけて、砕けてしまうだろう。
 ボートデッキで綱の操作をしている二人の水夫も、伝馬《てんま》の中にあって、しっかり、鉤のはずれないように握った、波田も字義どおりに「一生懸命」であった。波は、本船の船腹を蛇《へび》の泳ぐように、最高と最低との差を三間ぐらいに、うねりくねっていた。
 今、伝馬は波の斜面に乗った。波田はともの鉤《かぎ》をはずした。とその時に「スライキ、スライキ、レッコ」と怒鳴った。「延ばせ、延ばせ、打っちゃれ」という意味である。伝馬への本船からの臍《へそ》の緒《お》のごとき役を努めていた綱は今一方はずされ、どちらも延ばされた。波田はすぐに、船首の方の綱をも、うまくはずすことができた。そして、伝馬は、今や、本船と完全に独立した小舟になった。と同時に、伝馬は、すでに十間余りを押し流されていた。そしてそれは、盆の中で選《よ》り分けられる小豆《あずき》のように、ころころした。
 波田は、櫓《ろ》を入れた。船は、まっ黒い岩か何かのように、そこにどっしりしていた。そして、波の小舟は忙《せわ》しくころんだ。寂しい気持ちであった。彼は全身の力をこめて、櫓《ろ》を押した。船のともを回ろうとした時、伝馬はなかなかその頭を、どちらへも振り向けようとしなかった。一目散に逃げて行く犬の子のように、むやみに風に流されようとして、波田に反抗した。けれども彼の総身の努力は、そのからだに一杯の汗となってにじみ出たように、伝馬の頭をようやく風上《かざかみ》に向けることができた。が、ともすればそれは横に吹き流されそうであ
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