が先決問題だというような顔つきできいた。
『そうです』
『そうかね』と、今度はその男にきいた。
『へー』と、どっちだかわからぬ返事をその男はした。
『その事が、その積立金払い戻しについて、それほど重大な先決問題じゃないではありませんか、問題はきわめて簡単でしょう。労働者がその売った労働力に対して支払った金額の一部を、会社が労働者のために積み立ててある、強制的に。その金額を、労働者が返してくれというのは、まるで一分の思考をも要しないことじゃありませんか』白水はまくし立てた。
『そりゃね、だれも払わんとはいわんのだが、どういう手続きで持って行こうってんだね』
『支払い伝票さえ書けばいいこっちゃありませんか』
『つまり、退職しようというんだね』と、意地わるの後明人事係はいった。
『退職! だれが、いつ退職なんていったんです』と白水は少しずつ興奮してやり始めた。
『だが、会社の規則では、積立金は、退職の時に支払うということになってるもんだからね。従って、積立金を受け取る者は、同時に、賃銀の残額をも一緒に支給されることになるわけだね』と、その豚めは、いやに尻《しり》を落ちつけてやがった。
『もちろん』と、白水は口を切ったんだ。やつが、何か心に決することがある時の重々しい口調でね。
『労働者が退職して行く時に、積立金が賃銀と同時に支払われるのは、当然なんだ、それは工場法にも明記されてあることなんだ。しかし、それはいかなる事情があっても、会社に損害のかかった場合でも、それから差し引くことができない、性質の金なんだ。その金が本人退職後もなお会社に残っていたとすれば、明らかに委託金横領ではないか、その金が支払われるのが、いつも最後の例だからって、その金を受け取ることによって、辞職を意味するなんて、そんな詭弁《きべん》が、よくも人事係の君の口から吐けたもんだ。君のその論調と態度とが、今まで、労働者自身の金を、どんな必要があっても労働者へ返さなかった、という例を作ったまでのことだろう。君のその論調でやられたのならば、今まで、一時の入用のために、自分の預金を引き出すために、どのくらい多くの労働者を、君は馘首《かくしゅ》したことになるだろう。この会社の積立金がもし、糸切り歯のように、それをとると、命に関するというのであったなら、僕はわれわれの武器に訴えても、または工場法
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