は、驚くべき「理由」がなかった。だが、この診断書は、幾分なりとも、何らかの衝動を与えまいものでもない、と三人は空頼みにした。
小学校の子供たちが、本と弁当とを載せた小さい橇《そり》を引っぱって、笑ったり、わめいたりしながら、その高みにある学校から、ゾロゾロと帰って行った。道が、急な坂をなしているところになると、子供たちは、子供たちにとっても小さすぎる、その橇の上へ、両足をそろえて、まっしぐらに、下の街《まち》へすべり落ちて行って、曲がりそこねて、雑貨屋の店先に飛び込んだり、その破目板に打《ぶ》っつかったりした。中にはうまく曲がったは曲がったが、雪の掃きだめの山へ衝突して、煙のような粉雪をまき散らしたりする子もあった。
これは、ボーイ長にとって、たまらぬほど、愉快なことであった。いい気散じであった。
三、四年前までの彼の姿が、無数に雪の上をすべったり、ころんだりするのである。彼は、足のことを忘れてしまって、自分の負《おぶ》さっていることまで忘れていた。
彼を負んぶした波田は、汗をたらしていた。
「波田さん、菓子屋まで、まだ大分寄り道になるの」ボーイ長はフト菓子が食べたくなった。「きんつば」が食いたくなった。できれば、上等の蒸し菓子の中へ入れる餡《あん》だけが食べたくなった。彼は、甘いものを食べると、それは、血管を流れて行って、足の傷所《きず》で、皮になるように感ずるほど、それほど甘いものに飢えていた。それと一つは「上陸した以上は、煎餅《せんべい》一枚でも食わないと気が収まらん」と言う波田へ、その機会を与えたかった、と、休息したかったのと、最も彼を、この挙に出《い》でしめた重大な誘因は、一分でもおそく船へ帰りたかった、少しでも長く、陸の明るいところにいたかった。清い空気、ハッキリしたものの形、人間の生活、美しい一切のもの、それらと一刻も長く、一緒にいたかったのだ。
「そいつあいい思いつきだ」波田は、そのつもりで航路をそっちへとっていた。
東洋軒は、また、その日も、珍無類なお客を迎えた。
ボーイ長は、足がきかないので、日本間の方に三人は通された。
全く、波田がどのくらい甘いものに対して、真実の愛をささげているか、それは、私のよく表わし得ないところだ。彼は、ほんとの酒好きが、酒に目をなくす以上に、菓子には参っていた。それは「病的」だった。しかし、一体に、船
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