藤原が口を出した。
セーラーたちは、何か起こりはしないかと内心好奇心に駆られて「事」の起こるのを待っていた。
「黙ってろ! よけいな口をたたくな!」チーフメートはとうとう爆発した。
「黙ってろ? 黙るさ、だが、手前《てめえ》らにゃ手前らの命は大切でも、人間の命が、どのくらい大切かってことはわかる時はあるまいよ。ヘッ」藤原はそのまま自分の巣へ上がって、煙草《たばこ》に火をつけた。彼は明白にチーフメートに挑戦した。
戦争はすぐ開かれるか、あとで開かれるか、どんな形において開かれるか、それは水夫ら全体を興奮の極に追い上げた。
黒川一等運転手は彼の策戦が失敗したことを承認した。そして、多分この事はこれだけで片がつかないだろうと、いうこともわかった。長びくような事件にならねばよいがと彼は心配していた。特にそれは、この場合では、彼にとって絶対に都合のわるいことであった。彼は、黙って、早く手当てを済ますに限ると思ったので、その手当てを急いだ。
かくして、イヒチオールはそれが、その本来塗らるべきところであろうと、または、傷をなして赤い肉の出たところであろうと、出血しているところであろうと、おかまいなしに塗りたくられた。また、いかなることが起きても、起こらなくても、ボーイ長の左半身全体をまっ黒くするということは、彼の三時間にわたる熟慮の結果であった。
そしてチーフメート黒川鉄男は、そのプログラムに従って他意なくやってのけた。何ら親味な情からでもなく人間的な気持ちからでもなく、安井《やすい》――水夫見習い――は、その全半身にただ気やすめだけのイヒチオールを塗布された。それは義務を果たすための一つの対象にすぎなかった。
安井はうめいた。「おかあさん、おかあさん」と叫んで救いを求めた。そして目を開いては、絶望のどん底にまっ暗になって落ち込んでしまった。
彼は、からだの傷《いた》みと共に、堪《た》え得ぬ渇と飢えとに迫られていたのだった。
六
安井の手当てがすむと、水夫たちは、改めて、食卓についた。そして、いつでもは安井がボーイ長の職務として、食事の準備、あと片づけ等はするのであったが、今日《きょう》は、波田《はだ》が引き受けた。
「安井君、何か食べたくはないかい」と、波田はボーイ長にきいた。
「のどがかわいて、腹がすいて、たまらない」と、彼はかろうじて答
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