着くのであった。
そんなわけであったから、わが、団扇《うちわ》のような万寿丸は、豚のようなからだを汗だくで、その全速力九ノットを出していた。そしてこの大速力のために、船体はパシフィックラインのエムロシアが、全速を出した時のような、自震動をブルブルと感じながら飛んで行くのであった。なぜ、たった九ノットの速力でゆれるかといえば、わが万寿丸は、なるべく多く石炭を頬《ほお》ばるべく、デッキから、ボットムまで、どちらを向いてもガラン洞《どう》で、支柱がないためなのだった。それはフットボールの内部のようなものだった。
冬期の北海道は霧がはなはだしかった。汽船で鳴らす霧笛、燈台で鳴らす号砲のような霧信号。海へころがり込んだフットボールのような万寿丸は、霧のために、目隠しをされたものであるから、九マイルの速力をどうしても、もっと下げなければならないはずであった。けれどもそれは、正月のことを考える時に、船長はこれから上速力を下げるわけには行かなかった。その代わり彼はむやみやたらに霧笛を鳴らした。
それは何かの事変の前兆を知らせるという、犬の遠ぼえに似ていた。それを聞くものに、きっと不安な予感に似たものを吹き込まねば置かぬ音色であった。同じ汽笛でも、出帆の汽笛は寂しく、入港の汽笛は、元気よく勝ち誇ったように聞こえるものだ。霧笛の場合は同じ汽笛でも、不吉な、落ちつかない、何だかソワソワした気持ちに人を引き込んだ。自らその糸をひいている船長自身が、その音色に追っかけられるようにあとからあとからと、糸をひいた。霧笛は、ますます深く、人から景色《けしき》を奪う霧のように、その心から光と落ち着きとを奪うのであった。
精密なる海図と羅針盤《らしんばん》とがあるとはいえ、またそれが、めだかが湖に泳ぐような比例で海が広いとはいえ、とまれ先が見えないということは、安心のならないことであった。ことに水夫らにとっては、まるで盲人が杖《つえ》をかついで、文字どおり盲滅法に走っているように思われるのであった。
西沢と波田とは、ブリッジに上がって、小倉の舵取《かじと》りを見学していた。
自動車の運転手がそのハンドルを絶えず、回しているように、汽船の舵機《だき》も、前のコンパスとにらめっくらをしながら、絶えず、回され調節されていた。
一時間九ノットの速力も、この船全体をその権力の下に支配する、船長の心
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