いた。
 舵手《だしゅ》の小倉は、船首を風位から変えないように、そのあらゆる努力を傾注していた。彼の目はコンパスと、船の行方《ゆくえ》とを、機械的に注視していた。
 と、本船の前|左舷《さげん》はるかな沖合に、一|艘《そう》の汽船が見えた。「あ、汽船が!」と、小倉は無意識に叫んだ。
 船長もチーフメートもだれもがブリッジの左舷へ集まって、望遠鏡のレンズを向けた。
 この少し前から、ボートデッキで、サンパンの下にもぐり込んで仕事していた、水夫の波田芳夫《はだよしお》というのも、今小倉が見つけたのを見つけて、一人《ひとり》でサンパンの下からながめていたのであった。
 ブリッジでは望遠鏡があるために、その汽船は救助信号を掲げて、難破漂流しつつあるものであることがわかった。
 ブリッジからは、直ちにエンジンへ向けて、フルスピードを命令した。一つ救助に出かけようというのであった。
 全乗組員は難破船が見えると、その救助に向かうことを直ちに知ってしまった。そして、全員はボートデッキへスタンバイした。
 わが勇敢な、しかも自分も腹半分水を飲んだ半|溺死人《できしにん》のような、万寿丸は、その臨月のからだで、目的の難破船に、わずかに船首を向けた。きわめて、それはわずかの程度であった。が、本船はグーッと傾いた。そして見る見るうちに、その舵《かじ》が向いてもいないにかかわらず、グングンその頭を振り初めた。そして、同時に物すごい怒濤《どとう》が、船首、船尾の全部をのもうとするように打ち上げて来た。
 船長は、今いったばかりであったにもかかわらず、方位を元へ返した。本船はきわめて短い五分とかからぬ間《ま》に、ほとんどコースを半回転しようとしたのであった。
 難破船のやや近くへ近づくことはできたが、本船はその船首を非常な努力の下《もと》に従前どおりの位置に返してしまった。
 難破船を救うということは、本船を一緒に沈める計画になるというので、船首はもうその向きを換えなかった。けれども哀れな兄弟《きょうだい》たちの乗り込んでいる妹の難破船は、だんだんわれわれの視野に大きく明瞭《めいりょう》にはいるようになった。われわれは、今のコースをもって進むならば、四マイルぐらいのそばを通過するであろう。
 波田《はだ》は、サンパンの下からはい出してなおも一生懸命に、煙突にもたれて、寒さと、つかみどころを同時
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