ている。そして、小倉などは、一村の運命をになって志を立てようとしていた。地理的にいっても、社会的にいっても、海は最も低いところで、そこへ流れて来た「人間のくず」どもは、現社会の一切ののろいを引き受けて来ているように見えた。
 女郎買いをすることは、船員の常習[#「常習」は底本では「学習」と誤記]であるといわれていた。ことに下級船員は、そのために、全収入を蕩尽《とうじん》するのだと、社会は例外なく考えている。そして、それは、多くの場合事実である。が、それがどうしたというのだ。
 彼らも女郎買いをしたくはないのだ。愛人が必要なのだ。だが、今の社会で口のあいた靴《くつ》をはいて、油だらけの菜っ葉服を着て、足の踵《かかと》のように堅い手の皮を持った、金をそのくせ持っていない、「海坊主」を、だれが一体相手になってくれるんだ! いつ海の藻屑《もくず》と消えるか、いつ片手をもぎ取られるか、いつ、遠洋航路につくかわからない、無細工な「海坊主」どもを、どこの「娘」が相手になるか。
 ブルジョアどもは、その娘をダンスホールへ陳列し、プロレタリアの娘を、監獄のよりも高い煉瓦塀《れんがべい》の取りめぐらされた、工場の中に吸い込んでしまって、その中の上出来なのを、自分らの玩弄物《がんろうぶつ》なる「妾《めかけ》」にしてしまうんだ。
 ブルジョアどもは、人間を、自分たちを除いた一切の人間たちを、字義どおりの「馬車馬」的賃銀|奴隷《どれい》にしたいという、本能的な欲求を持っているんだ。
 そして、労働者は、生きたまま、何万馬力の電動機によって運転されている「挽《ひ》き肉器」の中へと、スクルーコンベーヤで運び込まれるのだ。
 こうして、賃銀奴隷は最後まで、人間でありたいという希望と努力を挽き砕かれて、無機物か何ぞのように、ブルジョア文化の路傍へほうり出されるんだ。そして、それは、ブルジョア道路を永久的にするためのコンクリート中の一石塊となって、永久に、道路の一部をなすように、計画されてあるのだ。
 だが、今はもうその計画どおりには行かないだろう! われらに教育がないということは、われらから、教育の機会を掠奪《りゃくだつ》したやつらに責任はあるが、やつらに責任を負わせたってそれで労働階級がどうなるんだ。今、われら自身でわれらを教育するんだ。今、われらは、すべてを自分の手でやって見せようと意気込んでい
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