通り、「隅から隅までルンペンである」かも知れない。それは、私も、絶えず、私に反問し、反省してゐる所である。だが、さういつたのは誰であるか。
*
それから、私たちは、文学の事はクラブで、政治、経済上の闘争は、それ/″\の所属の団体で、とハッキリして、運動に入つた。
文士といふ、ハンデキャップをつけて、政治上経済上の闘争に、さ迷ひ込まれては、お互に迷惑だ。
今、「ルンペン共」は、社会大衆党の内部で「右翼的偏向」と闘つてゐる。
さて、本題に立ち帰つて、「どうすれば、真実な意味の、強いプロレタリア文学が生れるか」
私は、調べた芸術とか、プロレタリアリアリズムとか、難かしいもつともらしい文句から、全つ切り、傍道へ外れ込んだ。
私には、文学士の肩書も無ければ、それらしい何にも無い、参考にすべき外国の書籍も読めない。
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「えゝい! 捨て身でブッつかれ!」と、私は又、捨て身を引つ張りだした。その「捨て身」から、何と、私は、「遺言文学」といふ、文句を思ひついちまつたのだ。
「遺言文学」の文句を思ひついたのは、妻子を田舎に残して、私は一人で、間借りしてゐる、空家の二階であつた。家主も、世智辛くなつたと見えて、空家の分割貸しを始めやがつた。
これこそプロ文学を守る道(下)
Nに、私は、この「遺言文学」を奨めたのである。それは、Nに自殺を強ひるにも等しい程、惨酷な事であつた。
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「だが、君といふ肉体は、一つの遺言も残さないで死ねば、それつ切りだ。だが、君が、現在の世の中に対して持つてゐる、支配階級へのじゆそ、君と同じやうに踏みくだかれてゐる者への愛情や涙、この不合理から自分自身を解放する為の組織、さういふものを、死を決して、遺言として残す積りでかゝれば、必ず人を打ち、動かすものが書けると思ふ。僕たち、労働者出の作家には、それ以外に何の材料も無いでは無いか。小細工を弄する時ではない、と僕は思ふ。実際、君にしろ、僕にしろ、皆が、自殺か何かを考へないではゐられない時代なのだからねえ」
[#ここで字下げ終わり]
さう、私はいつてしまつて、後で、Nの顔を見る事が出来なかつた。
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文学は惨酷なものである。
もし、「遺言の積りで書いたもの」が、人を感動させる事も、面白くも可笑しくも、無いものであつたら、どうであらう。
「それは、まだ君が、『遺言の積り』であつて、『真実の遺言』で無いからだ、と、真実の遺言を書かせちまはなければ、プロレタリア文学はならないだらうか?」
まだしも、「それはルンペンだ」とか、「それは右翼的偏向だ」とか、何だかだといはれてる方が、楽な気持であらう。
*
Nは、それから、一ヶ月許り姿を見せなかつた。私は、非常に心配した。で、絶えず、空家の二階から、おとし穴のやうなNの借間を訪問した。Nは、党支部の仕事でゐない事が、間々あつた。
「遺言文学なんて出たら目を、気にかけないでゐてくれるやうに」と、私は願つてゐた。だが遺言よりもいゝものを書いて、苦しんでゐる、プロレタリア農民を、鼓舞し、慰め、立ち上らせてくれるやうな、素晴らしいものを、創り上げてくれるやうに、とも願つてゐた。
*
それから、一ヶ月の後に、私たちの、プロレタリア作家クラブで、朗読会をやつた。その時は、各々自作の作品を朗読するのであるが二つの素晴らしい作品が、朗読された。その一つは、私の心配してゐた、Nのものであつた。Nの小説が、中途までくると、私は、仰向けに寝転がつて、溢れる涙をそうつと、たもとでふいた。が、ふいてもふいても、ふき切れない程の、涙が、腹の底から沸きだした。
Nが読み終つた時、長い、深い、沈黙があるだけだつた。咳もしなかつた。
暫くして、同志Sが、やうやく口を切つた。
「あゝ、またおれは追ひ抜かれた!」
「素、素、素晴らしい!」
と、叫んだ。私の声は、まるで私の子供のと、すつかり同じ泣き声だつた。
*
この小説は、外の、捨て身な作品と共に、私たちの生活を、文字通りに食ひ込む雑誌の創刊号に発表される。
私たちは、困難な時代に生きてゐる。そして、プロレタリア文学の道は、全く、困難な道を行き悩んでゐる。だが、私たちは、「捨て身」で、「遺言」の積りで、プロレタリア文学の道を守つて行かうと思つてゐる。
底本:「日本の名随筆 別巻17 遺言」作品社
1992(平成4)年7月25日第1刷発行
底本の親本:「葉山嘉樹全集 第五巻」筑摩書房
1976(昭和51)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:渡邉つよし
校正:もりみつじゅんじ
2000年11月6日公開
2006年
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