を済ましてから、伊東は松林に囲まれた家を出た。街には出ないで、役場の横から明神下の入江に通ずる道には、春を待つポプラが並木を作っている。
 疎《まば》らな人家を過ぎて船板を渡した溝を越えると、勝浦町《かつうらまち》へ通ずる県道になっている。伊東は晴れた空の下に杖《つえ》を振って、だれも人の通っていない明るい海岸の道路を歩いていた。したがって喜望峰のテーブル山の景色と、現世にいない両親や伯母やイサベルのことを、さっきと同じく何物にも乱されずにぼんやりと思いつづけていた。
 道路は爪先《つまさき》上がりに高くなって、海岸からだんだんに離れていった。彼は第一のトンネルを越したところから県道を切れて、菜の花の開いている崖《がけ》の上の山道を入っていった。曲がりくねった小径《こみち》について雑木林の丘を越えると、豁然《かつぜん》と展《ひら》けた眼下の谷に思いがけない人家があって、テニスコートにでもしたいような広場に鰯《いわし》を干しているのが見えた。
 次の丘を回ったときには、はるか下の赤土の傾斜地に、桃色の鉢巻きをした漁師たちが蟻《あり》のように並んで網を繕っているのが見えた。
 伊東はみちみち、菜の花や水仙などを摘んで丘の裾《すそ》を繞《めぐ》りながら、遠くに部原《へばら》の海を見下ろす崖の上へ出た。白っぽい県道が緑の間を抜けて、木橋の上へ出る。ちょうどその下が鉄道線路になって、十数間先に第二のトンネルがあった。と見ると、トンネルの入口に筵《むしろ》が敷いてあって、数人の男がその傍に立っている。
「轢死人《れきしにん》だな」
 伊東はすぐ行ってみる気になった。もっともそれは帰り道だったせいもあろうが、彼は道のない枯草を分けて、遮二無二に橋の上へ辷《すべ》り下りた。
 ちょうどそこへ自動車が停《と》まって、慌ただしく二人の男女が降りてきた。
「あら、旦那《だんな》さまですの、大変なことができましたんですよ」
 と、女が言った。
「大変って、あれですか?」
 伊東は下のトンネルの入口を指した。
「ああ、あれですの? いやになってしまいますね。兄貴が昨夜《ゆうべ》、飛び込んだのですって。持ち物にも名前があったし、それに顔を知っている者があったので、いましがた知らせを受けて飛んできたのです。本当に死んでまでも人騒がせをして、他人《ひと》さまにご厄介をかけるなんて、なんていうことで
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