伊東はかねがね、宝沢とお玉との交渉を漠然とは想像していたが、その手帳によって彼の想像が誤りでなかったことをはっきりと知った。その間の消息を知っている武太郎が、いかに二人を悩ましたかということは想像に余りある。……宝沢は猟銃を奪い返すために武太郎の後を追っていった。……人里離れた山中で半狂乱の武太郎と宝沢との間に、どのような激しい言葉が交わされたであろう。……伊東はその朝、検視の折、武太郎の無残に切断された右|大腿部《だいたいぶ》の内側に銃砲による弾痕《だんこん》を密《ひそ》かに発見して、急に口を噤《つぐ》んでしまったことを思い合わせた。そして、彼はさらに黒手帳によって、あの物静かな健《けな》げな奥さんが受取人となっでいる二万円の生命保険金は、一人息子の直一を立派に教育していく財産になるのであろうことを知った。
 伊東は部屋を横切ってもう一度暗い海に見入ったが、そこにはもう恐ろしい宝沢の断末魔の顔は浮かんでこなかった。
 為吉・磯公、その他村の若者たちは続々集まってきたが、風雨はますます吹き募って船を下ろすことすらできなかった。
 午後十時、風はいくらか凪《な》いだ。高いうねりをものともせず甲斐がいしく救助に向かった若者たちは、水に浸って漂っていた伊東家のボートを曳《ひ》いて空《むな》しく引き揚げてきた。
 伊東は愛する懐かしい人たちばかりで埋まった死人台帳に宝沢の名を書き込み、その日の日記の終わりに――宝沢法人、鴨猟《かもりょう》のため、兜岩に赴き、暴風雨に遭難、溺死《できし》す。享年四十二歳。
 と付記した。



底本:「清風荘事件 他8編」春陽文庫、春陽堂書店
   1995(平成7)年7月10日初版発行
入力:大野晋
校正:ちはる
2001年4月30日公開
2006年4月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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