。ガスケル老人が取りにくる迄、僕が預って置く」私は思掛けずにモニカの肖像を手に入れたので再び彼女に邂逅《めぐりあ》う前兆のような気がして嬉しかった。
私が再び日蔭の街の下宿へ戻ってから、二ヶ月余り経過《た》った。倫敦には春がきた。穏かな街にラベンダア売りの古風な呼声が聞えていた。
其日も空しく歩き廻った私は、橋向うのバタミー公園を抜けて、監獄のあるB街の方へ歩いていった。場末らしい、塵埃ぽい街の角に、「世の終り」という看札を掲げた酒場があった。私は毎日のように斯うしてモニカを捜し歩いているのである。そしてとうとう「世の終り」まで来てしまったと思って、苦笑しながら、疲労れた足を引擦って中へ入っていった。
私は肥満った亭主から受取った麦酒のコップをもって、隅の椅子に就くと、不意に肩を句《たた》いたものがあった。それはグレー街の附近でよく見掛けた、乞食の爺さんであったが、職業にでも就いたと見えて、ちゃんとした服装をしていた。
「お前さんは、籤を引き損こなったね」老人は私の傍へ腰を下した。
「何の籤です」私は老人の海の底のような、紫色の瞳を視つめながら問返した。
「運命の籤さ。あの日お前さんが時間に遅れた計りに、皆の嫌っていたルグナンシェがお前さんの代りに汽船へ乗ってしまった」
「皆というのは誰です」
「ガスケル老人と、モニカ嬢さ」
「ええ? モニカ? ハハハ……」私は声を挙げて笑った。失望して泣く訳にもゆかない。驚くのも間が抜けている。けれども私の胸には驚愕と失望と、悲哀とが錯綜していた。私の哄笑は、それ等の気持を憫む笑であった。
老人は低声で語った。
「ガスケルさんとモニカ嬢が、急に米国行を思立ったのはルグナンシェから遁れる為であった。それだのに、運命という悪戯者はモニカ嬢とルグナンシェとを結婚させてしまった」
「そんな馬鹿な事はない。倫敦を出発ったのはルグナンシェを遁れる為だったのじゃあないか」
「だが、あの仏蘭西人はガスケル家の秘密を握っていた。今から二十年前に、濠洲のシドニーにガスケル兄弟商会という大きな雑穀商があった。或日ガスケル兄弟は商用で三十|哩《マイル》計り離れた市へ出掛けていったが、その帰途に兄は進行中の列車から墜落して惨死してしまったのさ。ところがこれは過失でなくして弟が兄を突落したのであろうという事になって、法廷に持出される程の問題となったのだ」
「ではあのガスケル老人が兄殺しをしたのですか」
「無論、ガスケルさんは人殺しなんかしなかったが。証拠を立てる事が出来なかった。それというのは、前の晩自分だけ先に町へ帰ってきて、人目を忍んで嫂の許へいっていたからさ。詮り自分の証明を立てようとすれば、嫂の名誉を傷けるようになるからなのだ。いいかね。二人は兄の目を盗んでいた仲だったのだよ」
「その事件と、ルグナンシェはどういう関係があるのです」
「其頃店員であったルグナンシェは主人を救う為に、法廷で偽りの証言をしたのだ。ガスケルさんはそれで牢へ入らずに済んだが、その代りルグナンシェから、金を強請られていたのですよ。段々それが嵩じてきたので、嫂さんが死去《なくな》ると間もなく、モニカ嬢を連れて、南アフリカのナタールへ逃げていったのです。ルグナンシェはそれで始終ガスケルさんの後を追い廻していたのですよ。ストランドの露路で殺された男ですか、あれはルグナンシェの仲間で、お嬢様に夢中になっていたんですよ。つまり、ルグナンシェに取っては邪魔な奴なんです。俺は昔からガスケル家に大変お世話になったもので、もとからの乞食ではありませんよ。いろいろな悪い奴等が御主人やお嬢様を付狙《つけねら》っているから、ああやって戸外で見張っていたのです。あの時貴郎が時間に遅れずに波止場へ来て呉れたらよかったのだが、ルグナンシェの奴が嗅付けてやってきた為に、すっかり番狂わせになってしまいましたっけ」老人は語り終ると、泡の消えたスタウトを呑乾して、ふらふらと店を出ていった。
ガスケル家に於ける私の十数日は、完全に夢となって消えてしまった。
公園の青空で、太陽が過去った冬の日を笑っている。世はもう春である。誰も陰惨な霧の日のことなどを思出す者はない。
[#地付き](「探偵文藝」一九二六年一、二、四月号)
底本:「幻の探偵雑誌5 「探偵文藝」傑作選」光文社文庫、光文社
2001(平成13)年2月20日初版1刷発行
初出:「探偵文藝 第二巻第一、二、四号」奎運社
1926(大正15)年1、2、4月号
入力:川山隆
校正:土屋隆
2006年12月31日作成
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