其日の夕方、汽車は遠い見知らぬ港へ私を運んでくれた。私の乗る筈であった米国行のダイアナ号は、一時間前に港を出てしまった。大荷物を抱えた私は、積重なった古船材の端に腰を下して、白っぽく光っている水平線を視詰めていた。遥に見える一条の煙は、恐らく私を取遺していったダイアナ号であろう。
 湿った潮風が、私の心を吹きぬけていった。私は米国行の機会を失ったのを悲しんでいるのではなかった。淋しい夕暮の港に佇《た》って、遠ざかってゆく汽船を見送る時に、誰もが味うような、核心のない侘しさを感じていたのである。その寂しさの奥に倫敦の紅い灯火が滲んでいた。そこにはモニカがいる。美しいモニカがいる。
 私は影のように停車場へ戻っていった。

        八

 一晩中、汽車に揺られ通して、翌朝倫敦へ着くと、恐ろしい霧の日が私を待っていた。私の懐中にはつつましくすれば二年間は暮せるだけの金があったが、衣類其他を全部ダイアナ号に積込んでしまったので、着のみ着のままであった。
 私は霧の中を彷徨い歩いて、ようやくグレー街のガスケル家に着いた。老人の落着先が判れば托された品を次の便船で送り届ける事が出来ると思ったからである。
 黄色い霧に鎖された家の窓には売家と書いた赤い札が貼ってあった。凡てが遠い遠い昔の出来事のように思われた。昨日まで、私の暮していた大きな建物は、私とは何の交渉もないように冷かに立っている。
 頭の上には光輝を失った太陽が、赤い提灯のように懸っていた。往来の人影も、車も、馬も、影絵のように動いていた。何も彼も嘘のようである。
 私は公園の鉄柵に沿って、柏の宿を訪ねた。
「君、米国行は止めにしたのか。その荷物は何だい」ようやく起きた計りの柏は、眼を擦りながらいった。私は昨日以来の出来事を語って、その荷物は二三日中にソーホー街八十八番の家へ返しにゆく積りだといい添えた。
「絵画のようだね。開けて見ようじゃあないか」柏は私の返事も待たずに荷物を解きにかかった。最後の包紙を脱《と》った時、
「おや!」私と柏は同音に叫んだ。私共二人の眼を驚かせたのは、展覧会で盗難に遭った「歓の泉」であった。
「何だ、この絵を盗ませたのはガスケル老人なのか。随分変り者だと聞いていたが、詰らない人騒がせをしたものだね」柏は失われた絵が無事に戻ってきたので、小供のように喜んだ。
「君、これは僕のだよ
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