出して余熱《ほとぼり》の冷めるまで引籠っている事にした。
 土曜日の朝、柏から手紙がきた。ボンド街のXギャラリーへ絵画を出品したら、当選したから見にきてくれ、と例の如く至極簡単に記してある。その日は私の休日であったが、一二時間も仕事をすれば、手都合のいいところまで形付いてしまうので、朝から部屋へ入ってせっせと仕事にかかった。一しきり仕事のくぎりがついた時、私は何かの用で境の扉をあけて老人の居間へ入ると、ガスケル氏は凭椅子を離れて、部屋の隅にある卓の前にスックリと立っていた。彼は人の入ってくる気勢に、卓の上のものを手早く抽出へ投込んで、いつになく恐ろしい顔をして振返った。
「いかん、いかん、君は何だってことわりもなく儂の部屋へ入るのだ。どのような用件があろう共、儂の許可なくして断じてこの部屋へ入る事は出来ないという規則ではないか」老人は苦りきっている。
 私はその時、老人が卓の抽出しに隠したものを目敏く見付けた。それは燃えるように真赤な緋房ではないか。サボイ旅館の食堂で令嬢の持っていたものが、その晩殺人事件のあった現場に墜《お》ちており、それを拾って帰った私は破れ靴を穿いた乞食老爺の靴の裏に踏かくされてしまった。その緋房がどういう理由でガスケル氏の手許にあるのであろう。
 老人は不興気な様子で、探るように私の眼を凝視ていたが、じき穏かになった。老人の態度が異様であっただけに、私はその謎の緋房に就いて、一層疑惑の念を高めた。
 私はそれから三十分後に、ボンド街Xギャラリーへ入っていった。妍爛《けんらん》目を奪うような展覧会の、奥まった三号室へ入ったとき、一番最初に目についたのは「歓の泉」と題する柏の絵画であった。それは柏の所謂「愛の杯」から其儘抜出してきたような彼女が白衣の軽羅《うすもの》を纏って、日ざしの明るい森を背にして睡蓮の咲く池畔に立っている妖艶《ようえん》な姿であった。サボイの食堂でたった一目見た印象から、まるでモデルをつかって描いたように、斯くまで描上げた柏の伎倆に私は感嘆した。柏を探したが見当らないので、係員に訊ねると、
「毎日自分の絵を見に来ている、あの日本人の画家ですか、それなら先刻帰りましたよ」
 私は男の言葉を背後にきき流して直に柏の宿へ向った。玄関へ入ると出会頭に鼠色の中折帽子を被った男に擦違った。彼だ! サボイ劇場で見掛け、一〇一番の家で椅子の
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