は青年の立場を察して、怪しい男たちの来ないうちにその場を立ち去った。
それから数分後には、わたしは博物館の中を歩いていた。
子供の手を引いた美しい婦人や快活な娘たちの賑《にぎ》やかな一団と、後になり先になりして、古い壁掛けや古美術品などを見て回った。
やがて水族館をぐるぐる回って暗い廊下を抜けると、不意に眼前に数頭の獅子《しし》が森林を駆け回っている光景が現れた。いずれも剥製《はくせい》であるが、その様が真に迫っていた。
「そんな馬鹿《ばか》なことがあるものか、この大都会の真ん中で!」
とわたしはその時、声を出して独り言を言ってしまった。先刻の青年の奇怪な話が、無意識のうちに気にかかっていたものとみえる。
わたしは間もなく建物を出て帰途に着いた。
澱《よど》んだような穏やかな空の日足が、木々の影を地上に長く引いていた。
公園は相変わらず森閑としていて、そこにはもう奇怪な青年も鳥打帽の男たちの姿も見えなかった。
わたしはその晩、旧友|並山《なみやま》副領事の自宅に招かれて久しぶりに日本料理の馳走《ちそう》になった。食事のあとでハバナを燻《くゆ》らしながら安楽椅子《あんらくいす》に腰を下ろしたわたしは、金門公園の不思議な青年の話をした。並山はわたしがそのことを酷《ひど》く気にかけているのを軽く笑って、
「そんなことはきみ、沿岸の日本人間にはざらにあることで、略奪結婚っていうやつだよ。まさかその青年が言うように、そうもむやみと人殺しはやるまいが、といっても酷い奴になると、まったく何をやりだすかしれないがね」
「そんな無茶が通るなんて、野蛮極まるじゃあないか。何とかする方法はないものかね」
「内地と違って、日本人同士の事件では警察の態度が違うからね。もっとも、見込まれるような奴はたいてい何か暗い過去を持っているらしいね。まずなんとかする方法といえば、腕力か機知かな。正面から相手を叩《たた》きつけるか、巧みに裏をかいて逃げるか。まあきみ、そんなことは心配することはないよ。それに騒いでいるのは男ばかりで、案外女のほうはなんでもないかもしれない。アメリカ三界まで来て貧乏してみたまえ、女は二人の男のどっちを選ぶか分かりはしない。内地と違って、アメリカというところは生活がもっと切実に来るからな」
と、並山は磊落《らいらく》に言うのであった。
わたしたちはそれっきり、その話題を打ち切った。
そこへ奥さんや子供たちが現れてきて、賑やかな世間話に打ち興じた。
それでもわたしは青年のことが気にかかって、少し早めに暇《いとま》を告げて九時前にホテルに戻った。
広間のあちこちに、午後の汽車ででも着いたらしい新顔の日本人がだいぶ見えた。○○丸の出帆がいよいよ数日のうちに迫っているのである。
わたしの客はまだ来ていなかった。
わたしは念のために帳場へ行って、訪問客があったらすぐに通すように言いおいて、二階の自分の部屋へ退いた。
わたしは上着をガウンに着替えて、羅府《ロサンゼルス》の妹や友人たちに手紙を書いたり、夕刊新聞を読んだりしているうちに、待っている青年は来ないで時間は経過してとうとう十二時になってしまった。
階下はいつの間にか消灯して、建物の中は静まり返っていた。おりおり、遠くの往来を走る自動車の音が聞こえてくるばかりである。
青年はどうしたのであろう? 家を抜け出す機会がなかったのであろうか?
わたしはいくらか裏切られたようないやな気持ちで枕《まくら》もとの電灯を消して床に就いた。身体《からだ》が休まるにつれて、わたしの気持ちは穏やかになってきた。そして、約束の九時はおろか十二時になっても、ついにわたしを訪ねる機会を持たなかった青年の焦る気持ちを察するだけの余裕を持ってきた。
わたしは終夜、青年の哀訴するような瞳《ひとみ》に呼び覚まされながら、浅い夢に彼の姿を見つづけた。
目を覚ますと、朝陽《あさひ》がいっぱいに枕もとの壁に当たっていた。
階下のざわめかしい物音に、予感とでもいうのかわたしは不思議な胸騒ぎを覚えながら、着替えもそこそこに慌ただしく階段を下りていった。
殺人事件なのだ。
ホテルからつい目と鼻の先の教会の脇《わき》の空地に、日本人の青年が胸を刺されて死んでいたのを明け方通りかかった牛乳屋が発見したのである。第一に現場へ駆けつけたというホテルの支配人は、
「この辺では、ついぞ見かけたことのない男でしたよ。鼠色の背広を着て、紺に白い水玉模様のついたネクタイをしていました」
と語った。
その言葉はいちいちわたしの記憶に符合している。死骸《しがい》はすでに警察署へ運ばれたと聞いて、わたしはすぐ並山副領事へ電話をかけた。
それから三十分後に並山は自動車を飛ばしてきて、わたしを警察へ連れていってく
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