やることにいくら意義があると思っても、行く山が好きでなくては、結局われわれは行かないのである。と言うことは、山想う心が一次的には常に山そのものに対する愛着だということを意味する。この戦争で故人となったが、前穂北尾根又白側に輝かしい足跡をとどめたM高のY君が、かつていみじくも洩らした言葉――山男はロマンチストだ――は、この辺の事情を物語る一つの感懐であろうが、私はこれを人間性の最も素朴な要素である美への好尚に帰して考えたい。
山の持つ美への渇仰――、山の美に憧れ、しかもそれの遠見に満足せず、もっと端的にその真っ只中へ飛び込んで一つに相解かれたいと願う心――、これこそ人間を駆って山へ向かわせる原動力だ。
華麗、陰惨、明快、幽邃《ゆうすい》、重厚、深遠、平和、兇猛……、山の美は選ぶ人の心により各様である。或る人は富士を佳い山といい、或る人は穂高ほど素晴らしい山はないと言う。高尾山など頼まれても嫌だと言う人もあれば、そのふくよかな谷間をこよなく愛する人もある。しかし、それぞれ評価のすべてを貫いて流れるものは美への好尚であり、押しなべて山想う心である。
とまれ、私は古いスケジュールを果たしていこう。が、山に行くには元手がいる。その最大のものは体力である。体力が衰えては思う山へも登れまい。私の古いノートに残る計画は、幸い大部分が年を取ってもやれるものであるが、中に若干のものは少々手強くて、私はこれをやれるのはせいぜい三十二、三歳ぐらいまでと思っている。なぜ三十二、三歳かと言っても返事に困るが、何となくそう思われてならないのである。それまでには後五年ある。が、以前の体力を取り戻して、さらにそれ以上を蓄積するためには、五年の歳月も短かすぎて愚図愚図していられない気持になる。
日常の瑣煩事から解放された一とき、いつも思い出されるのはそのことであり、遠い山の姿である。
底本:「日本の名随筆10 山」作品社
1983(昭和58)年6月25日第1刷発行
1998(平成10)年8月10日第26刷発行
底本の親本:「風雪のビバーク」二見書房
1971(昭和46)年1月発行
入力:門田裕志
校正:Juki
2003年12月13日作成
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