。静かな夏の夕暮、人気の絶えた奥穂高の頂きに腰を下している時、ジャンダルムの上に高く高く聳えていた雲は、この雲ではなかったか。そし今もまた、この雲があの穂高の上でひっそりと黙って湧き上っているのではないだろうか。
「山へ行きたい」、「穂高へ行きたい」。もう用件も何もあったものではない。すぐ家へ帰って、ルックを詰めて……。よほどのこと、私はそうしようかと思った。
だが母の顔、伯父の顔、弟や妹のこと等を思い浮かべると、そうすることはできなかった。
「俺は今山を想っているのではない。自分のかつて山で過した楽しかった日を懐しんでいるのだ。それに違いない、それに過ぎないのだ……」そう思って自分を見詰め返して見た。そしていくぶん落ちつきを取りもどした。
「自分は山を離れなくてはいけない。いつまでも山に執着することは自分を幸福にする途ではない」その後も、しばしばこうした事は起こった。しかしそのつどそれは抑えつけ、そして抑え付けることもできた。自分の本当の幸福ということのために……。だがこうして諦められると思った山が、所詮《しょせん》自分とはどうしても切り離すことのできない存在であることを、一方では次第に肯定するような気もした。そして結論はその方に落ちついた。東京へ出て、昔の山仲間が焦土の中での都会生活が無味なものになっただけに、元気で山を忘れず、むしろそれを一層美しい夢として、今もなお思慕している姿に接してからのことであった。[#地から1字上げ](昭和二十一年十二月二十五日)
底本:「風雪のビバーク」二見書房
1971(昭和46)年1月12日初版発行
入力:ゼファー生
校正:門田裕志
2005年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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