ら谷を探り歩いたり、山の腹を捲いて歩いたりする場合のことであって、もし彼らが――本意ならずも――エベレストの頂上に立ったとすればやはりわれわれはそれをエベレストの登山と認めるであろう。スポーツの場合も同様であって、沢を遡行《そこう》して登りつめたところから漫然と尾根を下ったり、山の裾の岩壁を上り下りすることが、何故に登山と言えるであろうか。
それでもスポーツであればよいではないか、という主張もあろう。いかにもそういう行為がスポーツでないわけはない。だが、スポーツであるにしても、なんと末梢感覚的、病的なスポーツであろう。芯からの逞しさや、均衡のとれた豊円さはとても感じられない。そしてこれで満足させられるようなスポーツ感情はなんと病的なものであろう。多少|穿《うが》ち過ぎた推測かも知れないが、「他人がどう登ったから、自分はどう登る」といった競争意識、登山技術のみをもって人間の格付けをしようとする技術|偏重《へんちょう》主義、あるいはさらに進んで、取るに足らない小さな谷や尾根を漁《あさ》り歩いて、それが前人に取り残されていたがゆえに、自分がひとかどのことを成しとげたように思い込む功名主義など、皆こうした病的趣味に根を発しているのではなかろうか。
嶮しいところを登るのが悪いと私は言っているのではない。より困難なルートを登れるものなら、どんな困難なルートでも登ってくれ。だがそのルートの終りには必ず頂きがあり、ルートとして独自に評価されるものでなく、その頂きのより魅力的な道程であることを忘れないでくれ。
一つの頂きに目標を設定する、その頂きを所望のルートから登るに好都合な根拠地を求める。そしてその根拠地を出発して、途中の困難を一つ一つ克服しながら、なんとかして目標に達しようと努力する。健全なスポーツとしてならば、われわれは登山の形式を備えたその一連の努力全体を愛すべきではなかろうか。一つの登頂を成し遂げる、たとえ貧しい登頂でも、それを完全に果たす――一つのものを完成するか、失敗として中途で放棄するかに精魂を傾ける悦びは、悪場そのものに陶酔する種類の悦びとは自ら異なる。描くことの悦びではなく、描き上げることの悦びである。感覚的な悦びでなく理念的な悦びである。
踏みならされた登山道を、十年一日のごとく頂きへ通うピークハンティングはわれわれの採るところではない。自己のオリジナ
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