の不平は他に漏らすの方《かた》なく、凝りて三十一字となりて現れしものなるべく、その歌が塵気《じんき》を脱して世に媚《こ》びざるはこれがためなり。彼自ら詠じて曰《いわ》く
[#ここから4字下げ]
吾《わが》歌をよろこび涙こぼすらむ鬼のなく声する夜の窓
灯火《ともしび》のもとに夜な夜な来たれ鬼|我《わが》ひめ歌の限りきかせむ
人臭き人に聞《きか》する歌ならず鬼の夜ふけて来《こ》ばつげもせむ
凡人《ただひと》の耳にはいらじ天地《あめつち》のこころを妙に洩《も》らすわがうた
[#ここで字下げ終わり]
 何らの不平ぞ。何らの気焔《きえん》ぞ。彼はこの歌に題して「戯れに」といいしといえども「戯れ」の戯れに非《あらざ》るはこれを読む者誰かこれを知らざらん。しかるをなお強いて「戯れに」と題せざるべからざるもの、その裏面には実に万斛《ばんこく》の涕涙《ているい》を湛《たた》うるを見るなり。吁《ああ》この不遇の人、不遇の歌。
 彼と春岳との関係と彼が生活の大体とは『春岳|自記《じき》』の文に詳《つまびらか》なり。その文に曰く
[#ここから6字下げ]
橘曙覧の家にいたる詞
[#ここから2字下げ]
おのれにまさりて物しれる人は高き賤《いやし》きを選ばず常に逢《あい》見て事尋ねとひ、あるは物語を聞《きか》まほしくおもふを、けふは此《この》頃にはめづらしく日影あたたかに久堅《ひさかた》の空晴渡りてのどかなれば、山川野辺のけしきこよなかるべしと巳《み》の鼓《つづみ》うつ頃より野遊《のあそび》に出たりき、三橋といふ所にいたる、中根師質《なかねもろただ》あれこそ曙覧の家なれといへるを聞て、俄《にわか》にとはむとおもひなりぬ、ちひさき板屋の浅ましげにてかこひもしめたらぬに[#「ちひさき板屋の浅ましげにてかこひもしめたらぬに」に傍点]、そこかしこはらひもせぬにや塵ひぢ山をなせり[#「そこかしこはらひもせぬにや塵ひぢ山をなせり」に傍点]、柴の門もなくおぼつかなくも家にいりぬ[#「柴の門もなくおぼつかなくも家にいりぬ」に傍点]、師質心せきたるさまして参議君の御成《おなり》ぞと大声にいへるに驚きて、うちよりししじもの膝《ひざ》折ふせながらはひいでぬ、●
すこし広き所に入りてみれば壁[#「壁」に傍点]落《おち》かかり障子はやぶれ畳はきれ雨もるばかりなれども[#「かかり障子はやぶれ畳はきれ雨もるばかりなれども」に
前へ 次へ
全18ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 子規 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング