天皇の大御使《おおみつかい》と聞くからにはるかにをがむ膝をり伏せて
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 勅使をさえかしこがりて匍匐《はらば》いおろがむ彼をして、一たび二重橋下に鳳輦《ほうれん》を拝するを得せしめざりしは返すがえすも遺憾《いかん》のことなり。
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都にのぼりて
大行《たいこう》天皇の御はふりの御わざはてにけるまたの日、泉涌寺《せんにゅうじ》に詣《もうで》たりけるに、きのふの御わざのなごりなべて仏さまに物したまへる御ありさまにうち見奉られけるを畏《かしこ》けれどうれはしく思ひまつりて
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ゆゆしくも仏の道にひき入るる大御車《おおみくるま》のうしや世の中
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 曙覧は王政維新の名を聞きて、その実を見るに及ばざりしなり。
[#地付き]〔『日本』明治三十二年三月二十四日〕

 社会の一貧民としての曙覧、日本国民の一人としての曙覧は、臆測ながらにほぼこれを尽せり。ここより歌人としての曙覧につきて少しく評するところあらんとす。
 曙覧の歌は比較的に何集の歌に最も似たりやと問わば、我れも人も一斉に『万葉』に似たりと答えん。彼が『古今』、『新古今』を学ばずして『万葉』を学びたる卓見はわが第一に賞揚せんとするところなり。彼が『万葉』を学んで比較的|善《よ》くこれを模し得たる伎倆《ぎりょう》はわが第二に賞揚せんとするところなり。そもそも歌の腐敗は『古今集』に始まり足利時代に至ってその極点に達したるを、真淵《まぶち》ら一派古学を闢《ひら》き『万葉』を解きようやく一縷《いちる》の生命を繋《つな》ぎ得たり。されど真淵一派は『万葉』を解きて『万葉』を解かず、口には『万葉』をたたえながらおのが歌は『古今』以下の俗調を学ぶがごときトンチンカンを演出して笑《わらい》を後世に貽《のこ》したるのみ。『万葉』が遥《はるか》に他集に抽《ぬき》んでたるは論を待たず。その抽んでたる所以《ゆえん》は、他集の歌が豪《ごう》も作者の感情を現し得ざるに反し、『万葉』の歌は善くこれを現したるにあり。他集が感情を現し得ざるは感情をありのままに写さざるがためにして、『万葉』がこれを現し得たるはこれをありのままに写したるがためなり。曙覧の歌に曰く
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いつはりのたくみをいふな誠だにさぐれば歌はやすからむもの
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「いつ
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