ら、出して見たが卅八度しかなかった。
 今度は川の岸の高楼に上った。遥《はるか》に川面《かわも》を見渡すと前岸は模糊として煙のようだ。あるともないとも分らぬ。燈火が一点見える。あれが前岸の家かも知れぬ。汐《しお》は今満ちきりて溢《あふ》るるばかりだ。趣が支那の詩のようになって俳句にならぬ。忽ち一艘の小舟(また小舟が出た)が前岸の蘆花の間より現れて来た。すると宋江《そうこう》が潯陽江《じんようこう》を渡る一段を思い出した。これは去年病中に『水滸伝《すいこでん》』を読んだ時に、望見前面、満目蘆花、一派大江、滔々滾々、正来潯陽江辺、只聴得背後喊叫、火把乱明、吹風胡哨※[#「走にょう+旱」、第4水準2−89−23]将来、という景色が面白いと感じて、こんな景色が俳句になったら面白かろうと思うた事があるので、川の景色の聯想から、只見蘆葦叢中、悄々地、忽然揺出一隻船来、を描き出したのだ。しかしこの趣は去年も句にならなんだのであるから強いては考えなんだ。聯想は段々広がって、舟は中流へ出る、船頭が船歌を歌う。老爺生長在江辺、不愛交遊只愛銭、と歌い出した。昨夜華光来趁我、臨行奪下一金磚、と歌いきって櫓《ろ》を放した。それから船頭が、板刀麺《ばんとうめん》が喰いたいか、※[#「飮のへん+昆」、第4水準2−92−59]飩《こんとん》が喰いたいか、などと分らぬことをいうて宋江を嚇《おど》す処へ行きかけたが、それはいよいよ写実に遠ざかるから全く考を転じて、使の役目でここを渡ることにしようかと思うた。「急ぎの使ひで月夜に江を渡りけり」という事を十七字につづめて見ようと思うて「使ひして使ひして」と頻《しきり》にうなって見たが、何だか出来そうにもないので、復《また》もとの水楼へもどった。
 水楼へはもどったが、まだ『水滸伝』が離れぬ。水楼では宋江が酒を飲んで居る。戴宗《たいそう》も居る。李逵《りき》も居る。こんな処を上品に言おうと思うたが何も出来ぬ。それから宋江が壁に詩を題する処を聯想した。それも句にならぬので、題詩から離別の宴を聯想した。離筵《りえん》となると最早唐人ではなくて、日本人の書生が友達を送る処に変った。剣舞を出しても見たが句にならぬ。とかくする内に「海楼に別れを惜む月夜かな」と出来た。これにしようと、きめても見た。しかし落ちつかぬ。平凡といえば平凡だ。海楼が利かぬと思えば利かぬ。家の内だから月夜に利かぬ者とすれば家の外へ持って行けば善い。「桟橋に別れを惜む月夜かな」と直した。この時は神戸の景色であった。どうも落ちつかぬ。横浜のイギリス埠頭場《ふとうば》へ持って来て、洋行を送る処にして見た。やはり落ちつかぬ。月夜の沖遠く外国船がかかって居る景色をちょっと考えたが、また桟橋にもどった。桟橋の句が落ちつかぬのは余り淡泊過ぎるのだから、今少し彩色を入れたら善かろうと思うて、男と女と桟橋で別《わかれ》を惜む処を考えた。女は男にくっついて立って居る。黙って一語を発せぬ胸の内には言うに言われぬ苦《くるし》みがあるらしい。男も悄然《しょうぜん》として居る。人知れず力を入れて手を握った。直に艀舟《はしけ》に乗った。女は身動きもせず立って居た。こんな聯想が起ったので、「桟橋に別れを惜む夫婦かな」とやったが、月がなかった。今度は故郷の三津を想像して、波打ち際で、別を惜むことにしようと思うたがそれもいえず。遂に「見送るや酔のさめたる舟の月」という句が出来たのである。誠に振わぬ句であるけれど、その代り大疵《たいし》もないように思うて、これに極めた。
 今まで一句を作るにこんなに長く考えた事はなかった。余り考えては善い句は出来まいが、しかしこれがよほど修行になるような心持がする。此後も間《ひま》があったらこういうように考えて見たいと思う。[#地から2字上げ]〔『ホトトギス』第二巻第二号 明治31[#「31」は縦中横]・11[#「11」は縦中横]・10[#「10」は縦中横]〕



底本:「飯待つ間」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年3月18日第1刷発行
   2001(平成13)年11月7日第10刷発行
底本の親本:「子規全集 第十二巻」講談社
   1975(昭和50)年10月刊
初出:「ホトトギス 第二巻第二号」
   1898(明治31)年11月10日
※底本では、表題の下に「子規」と記載されています。
※「此後も間《ひま》があったら」の「間」のみは、底本では「門<月」となっています。
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2010年4月22日作成
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