などが大臣を誹《そし》るを見て「いくら新聞屋が法螺《ほら》吹いたとて、大臣は親任官、新聞屋は素寒貧、月と泥龜《すつぽん》程の違ひだ」などゝ罵《ののし》り申候。少し眼のある者は元勳がどれ位無能力かといふ事大臣は廻り持にて新聞記者より大臣に上りし實例ある事位は承知致し説き聞かせ候へども田舍の先生は一向無頓着にて不相變元勳崇拜なるも腹立たしき譯に候。あれ程民間にてやかましくいふ政治の上猶然りとすれば今迄隱居したる歌社會に老人崇拜の田舍者多きも怪むに足らねども此老人崇拜の弊を改めねば歌は進歩不可致候。歌は平等無差別なり、歌の上に老少も貴賤も無之候。歌よまんとする少年あらば老人抔にかまはず勝手に歌を詠むが善かるべくと御傳言可被下候。明治の漢詩壇が振ひたるは老人そちのけにして青年の詩人が出たる故に候。俳句の觀を改めたるも月並連に構はず思ふ通りを述べたる結果に外ならず候。
縁語を多く用うるは和歌の弊なり、縁語も場合によりては善けれど普通には縁語かけ合せなどあればそれがために歌の趣を損ずる者に候。縱《よ》し言ひおほせたりとて此種の美は美の中の下等なる者と存候。無暗に縁語を入れたがる歌よみは無暗に地口《ぢぐち》駄洒落を並べたがる半可通と同じく御當人は大得意なれども側より見れば品の惡き事夥しく候。縁語に巧を弄せんよりは眞率に言ひながしたるが餘程上品に相見え申候。
歌といふといつでも言葉の論が出るには困り候。歌では「ぼたん」とは言はず「ふかみぐさ」と詠むが正當なりとか、此詞は斯うは言はず必ず斯ういふしきたりの者ぞなど言はるゝ人有之候へどもそれは根本に於て已に愚考と異り居候。愚考は古人のいふた通りに言はんとするにても無く、しきたりに倣はんとするにても無く只自己が美と感じたる趣味を成るべく善く分るやうに現すが本來の主意に御座候[#「只自己が美と感じたる趣味を成るべく善く分るやうに現すが本來の主意に御座候」に白丸傍点]。故に俗語を用ゐたる方其美感を現すに適せりと思はゞ雅語を捨てゝ俗語を用ゐ可申、又古來のしきたりの通りに詠むことも有之候へどそれはしきたりなるが故に其を守りたるにては無之其方が美感を現すに適せるがために之を用ゐたる迄に候。古人のしきたりなど申せども其古人は自分が新に用ゐたるぞ多く候べき。
牡丹と深見草《ふかみぐさ》との區別を申さんに生等には深見草といふよりも牡丹といふ方が牡丹
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