にてもなく、しきたりに倣《なら》はんとするにてもなく、ただ自己が美と感じたる趣味をなるべく善く分るやうに現すが本来の主意に御座候[#「ただ自己が美と感じたる趣味をなるべく善く分るやうに現すが本来の主意に御座候」に白丸傍点]。故に俗語を用ゐたる方その美感を現すに適せりと思はば、雅語を捨てて俗語を用ゐ可申、また古来のしきたりの通りに詠むことも有之候へど、それはしきたりなるが故にそれを守りたるにては無之《これなく》、その方が美感を現すに適せるがためにこれを用ゐたるまでに候。古人のしきたりなど申せども、その古人は自分が新《あらた》に用ゐたるぞ多く候べき。
 牡丹《ぼたん》と深見草《ふかみぐさ》との区別を申さんに、生らには深見草といふよりも牡丹といふ方が牡丹の幻影早く著《いちじるし》く現れ申候。かつ「ぼたん」といふ音の方が強くして、実際の牡丹の花の大きく凛《りん》としたる所に善く副《そ》ひ申候。故に客観的に牡丹の美を現さんとすれば、牡丹と詠むが善き場合多かるべく候。
 新奇なる事を詠めといふと、汽車、鉄道などいふいはゆる文明の器械を持ち出す人あれど大《おおい》に量見が間違ひをり候。文明の器械は多く不《ぶ》風流なる者にて歌に入りがたく候へども、もしこれを詠まんとならば他に趣味ある者を配合するの外無之候。それを何の配合物もなく「レールの上に風が吹く」などとやられては殺風景の極に候。せめてはレールの傍に菫《すみれ》が咲いてゐるとか、または汽車の過ぎた後で罌粟《けし》が散るとか、薄《すすき》がそよぐとか言ふやうに、他物を配合すればいくらか見よくなるべく候。また殺風景なる者は遠望する方よろしく候。菜の花の向ふに汽車が見ゆるとか、夏草の野末を汽車が走るとかするが如きも、殺風景を消す一手段かと存候。
 いろいろ言ひたきまま取り集めて申上候。なほ他日|詳《つまびら》かに申上ぐる機会も可有之《これあるべく》候。以上。月日。
[#地から2字上げ](明治三十一年三月四日)



底本:「歌よみに与ふる書」岩波文庫、岩波書店
   1955(昭和30)年2月25日第1刷発行
   1983(昭和58)年3月16日第8刷改版発行
   2002(平成14)年11月15日第26刷発行
入力:網迫、土屋隆
校正:川向直樹
2004年8月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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