俳句には調がなくて和歌には調がある、故に和歌は俳句に勝《まさ》れりとある人は申し候。これは強《あなが》ち一人の論ではなく、歌よみ仲間には箇様《かよう》な説を抱く者多き事と存候。歌よみどもはいたく調といふ事を誤解致しをり候。調にはなだらかなる調も有之、迫りたる調も有之候。平和な長閑《のどか》な様を歌ふにはなだらかなる長き調を用うべく、悲哀とか慷慨《こうがい》とかにて情の迫りたる時、または天然にても人事にても、景象《けいしょう》の活動甚しく変化の急なる時、これを歌ふには迫りたる短き調を用うべきは論ずるまでもなく候。しかるに歌よみは、調は総《すべ》てなだらかなる者とのみ心得候と相見え申候。かかる誤《あやまり》を来すも、畢竟《ひっきょう》従来の和歌がなだらかなる調子のみを取り来りしに因《よ》る者にて、俳句も漢詩も見ず、歌集ばかり読みたる歌よみには、爾《し》か思はるるも無理ならぬ事と存候。さてさて困つた者に御座候。なだらかなる調が和歌の長所ならば、迫りたる調が俳句の長所なる事は分り申さざるやらん。しかし迫りたる調、強き調などいふ調の味は、いはゆる歌よみには到底分り申す間敷《まじき》か。真淵は雄々《おお》しく強き歌を好み候へども、さてその歌を見ると存外に雄々しく強き者は少く、実朝の歌の雄々しく強きが如きは真淵には一首も見あたらず候。「飛ぶ鷲《わし》の翼もたわに」などいへるは、真淵集中の佳什《かじゅう》にて強き方の歌なれども、意味ばかり強くて調子は弱く感ぜられ候。実朝をしてこの意匠を詠ましめば箇様な調子には詠むまじく候。「もののふの矢なみつくろふ」の歌の如き、鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど、調子の強き事は並ぶ者なく、この歌を誦《しょう》すれば霰《あられ》の音を聞くが如き心地致候。真淵既にしかりとせば真淵以下の歌よみは申すまでもなく候。かかる歌よみに、蕪村派《ぶそんは》の俳句集か盛唐《せいとう》の詩集か読ませたく存候へども、驕《おご》りきつたる歌よみどもは、宗旨以外の書を読むことは、承知致すまじく、勧めるだけが野暮《やぼ》にや候べき。
 御承知の如く、生は歌よみよりは局外者とか素人《しろうと》とかいはるる身に有之、従つて詳《くわ》しき歌の学問は致さず、格が何だか文法が何だか少しも承知致さず候へども、大体の趣味|如何《いかん》においては自ら信ずる所あり、この点につきてかへつて専門の歌よみが不注意を責むる者に御座候。箇様に悪口をつき申さば生を弥次馬《やじうま》連と同様に見る人もあるべけれど、生の弥次馬連なるか否かは貴兄は御承知の事と存候。異論の人あらば何人《なんぴと》にても来訪あるやう貴兄より御伝へ被下《くだされ》たく、三日三夜なりともつづけさまに議論|可致《いたすべく》候。熱心の点においては決して普通の歌よみどもには負け不申候。情激し筆走り候まま失礼の語も多かるべく御海容可被下《ごかいようくださるべく》候。拝具。
[#地から2字上げ](明治三十一年二月十八日)
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    四《よ》たび歌よみに与ふる書


 拝啓。空論ばかりにては傍人に解しがたく、実例につきて評せよとの御言葉|御尤《ごもっとも》と存候。実例と申しても際限もなき事にて、いづれを取りて評すべきやらんと惑《まど》ひ候へども、なるべく名高き者より試み可申候。御思《おんおも》ひあたりの歌ども御知らせ被下《くだされ》たく候。さて人丸《ひとまろ》の歌にかありけん

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もののふの八十氏川《やそうじがわ》の網代木《あじろぎ》にいざよふ波のゆくへ知らずも
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といふがしばしば引きあひに出されるやうに存候。この歌万葉時代に流行せる一気|呵成《かせい》の調にて、少しも野卑なる処はなく、字句もしまりをり候へども、全体の上より見れば上三句は贅物《ぜいぶつ》に属し候。「足引《あしびき》の山鳥の尾の」といふ歌も前置の詞《ことば》多けれど、あれは前置の詞長きために夜の長き様を感ぜられ候。これはまた上三句全く役に立ち不申候。この歌を名所の手本に引くは大たはけに御座候。総じて名所の歌といふはその地の特色なくては叶《かな》はず、この歌の如く意味なき名所の歌は名所の歌になり不申候。しかしこの歌を後世の俗気紛々たる歌に比ぶれば勝ること万々に候。かつこの種の歌は真似すべきにはあらねど、多き中に一首二首あるは面白く候。

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月見れば千々《ちぢ》に物こそ悲しけれ我身一つの秋にはあらねど
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といふ歌は最も人の賞する歌なり。上三句はすらりとして難なけれども、下二句は理窟なり蛇足《だそく》なりと存候。歌は感情を述ぶる者なるに理窟を述ぶるは歌を知らぬ故にや候らん。この歌下二句が理窟なる事は消極的に言ひたるにても知れ可申、もしわが身一つの秋と思ふと詠《よ》むならば感情的なれども、秋ではないがと当り前の事をいはば理窟に陥《おちい》り申候。箇様な歌を善しと思ふはその人が理窟を得《え》離れぬがためなり、俗人は申すに及ばず、今のいはゆる歌よみどもは多く理窟を並べて楽《たのし》みをり候。厳格に言はばこれらは歌でもなく歌よみでもなく候。

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芳野山|霞《かすみ》の奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり
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 八田知紀《はったとものり》の名歌とか申候。知紀の家集はいまだ読まねど、これが名歌ならば大概底も見え透《す》き候。これも前のと同じく「霞の奥は知らねども」と消極的に言ひたるが理窟に陥り申候。既に見ゆる限りはといふ上は見えぬ処は分らぬがといふ意味は、その裏に籠《こも》りをり候ものを、わざわざ知らねどもとことわりたる、これが下手と申すものに候。かつこの歌の姿、見ゆる限りは桜なりけりなどいへるも極めて拙《つたな》く野卑《やひ》なり、前の千里《ちさと》の歌は理窟こそ悪《あし》けれ姿は遥《はるか》に立ちまさりをり候。ついでに申さんに消極的に言へば理窟になると申しし事、いつでもしかなりといふに非《あら》ず、客観的の景色を連想していふ場合は消極にても理窟にならず、例へば「駒とめて袖うち払ふ影もなし」といへるが如きは客観の景色を連想したるまでにて、かくいはねば感情を現す能《あた》はざる者なれば無論理窟にては無之候。また全体が理窟めきたる歌あり(釈教の歌の類)、これらはかへつて言ひ様にて多少の趣味を添ふべけれど、この芳野山の歌の如く、全体が客観的即ち景色なるに、その中に主観的理窟の句がまじりては殺風景いはん方なく候。また同人の歌にかありけん

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うつせみの我世の限り見るべきは嵐の山の桜なりけり
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といふが有之候由、さてさて驚き入つたる理窟的の歌にては候よ。嵐山の桜のうつくしいと申すは無論客観的の事なるに、それをこの歌は理窟的に現したり、この歌の句法は全体理窟的の趣向の時に用うべき者にして、この趣向の如く客観的にいはざるべからざる処に用ゐたるは大俗のしわざと相見え候。「べきは」と係《か》けて「なりけり」と結びたるが最《もっとも》理窟的殺風景の処に有之候。一生嵐山の桜を見ようといふも変なくだらぬ趣向なり、この歌全く取所《とりどころ》無之候。なほ手当り次第|可申上《もうしあぐべく》候也。
[#地から2字上げ](明治三十一年二月二十一日)
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    五《いつ》たび歌よみに与ふる書


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心あてに見し白雲は麓《ふもと》にて思はぬ空に晴るる不尽《ふじ》の嶺《ね》
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といふは春海《はるみ》のなりしやに覚え候。これは不尽の裾《すそ》より見上げし時の即興なるべく、生も実際にかく感じたる事あれば面白き歌と一時は思ひしが、今見れば拙き歌に有之候。第一、麓といふ語|如何《いかが》や、心あてに見し処は少くも半腹《はんぷく》位の高さなるべきを、それを麓といふべきや疑はしく候。第二、それは善しとするも「麓にて」の一句理窟ぽくなつて面白からず、ただ心あてに見し雲よりは上にありしとばかり言はねばならぬ処に候。第三、不尽の高く壮《さかん》なる様を詠まんとならば、今少し力強き歌ならざるべからず、この歌の姿弱くして到底不尽に副《そ》ひ申さず候。几董《きとう》の俳句に「晴るる日や雲を貫く雪の不尽」といふがあり、極めて尋常に叙《じょ》し去りたれども不尽の趣はかへつて善く現れ申候。

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もしほ焼く難波《なにわ》の浦の八重霞《やえがすみ》一重《ひとえ》はあまのしわざなりけり
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 契沖《けいちゅう》の歌にて俗人の伝称する者に有之候へども、この歌の品下りたる事はやや心ある人は承知致しをる事と存候。この歌の伝称せらるるは、いふまでもなく八重一重の掛合《かけあわせ》にあるべけれど、余の攻撃点もまた此処《ここ》に外ならず、総じて同一の歌にて極めてほめる処と、他の人の極めて誹《そし》る処とは同じ点にある者に候。八重霞といふもの固《もと》より八段に分れて霞みたるにあらねば、一重といふこと一向に利き不申、また初《はじめ》に「藻汐《もしお》焼く」と置きし故、後に煙とも言ひかねて「あまのしわざ」と主観的に置きたる処、いよいよ俗に堕《お》ち申候。こんな風に詠まずとも、霞の上に藻汐|焚《や》く煙のなびく由尋常に詠まば、つまらぬまでもかかる厭味《いやみ》は出来申間敷候。

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心あてに折らばや折らむ初霜《はつしも》の置きまどはせる白菊の花
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 この躬恒《みつね》の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちも無之《これなき》駄歌に御座候。この歌は嘘《うそ》の趣向なり、初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣《きづかい》無之候。趣向嘘なれば趣も糸瓜《へちま》も有之不申《これありもうさず》、けだしそれはつまらぬ嘘なるからにつまらぬにて、上手な嘘は面白く候。例へば「鵲《かささぎ》のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更《ふ》けにける」面白く候。躬恒のは瑣細《ささい》な事をやたらに仰山に述べたのみなれば無趣味なれども、家持《やかもち》のは全くない事を空想で現はして見せたる故面白く被感《かんぜられ》候。嘘を詠むなら全くない事、とてつもなき嘘を詠むべし、しからざればありのままに正直に詠むがよろしく候。雀が舌を剪《き》られたとか、狸《たぬき》が婆《ばば》に化けたなどの嘘は面白く候。今朝は霜がふつて白菊が見えんなどと、真面目《まじめ》らしく人を欺《あざむ》く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候。「露の落つる音」とか「梅の月が匂ふ」とかいふ事をいふて楽《たのし》む歌よみが多く候へども、これらも面白からぬ嘘に候。総《すべ》て嘘といふものは、一、二度は善けれど、たびたび詠まれては面白き嘘も面白からず相成申候。まして面白からぬ嘘はいふまでもなく候。「露の音」「月の匂《におい》」「風の色」などは最早《もはや》十分なれば、今後の歌には再び現れぬやう致したく候。「花の匂」などいふも大方は嘘なり、桜などには格別の匂は無之、「梅の匂」でも古今以後の歌よみの詠むやうに匂ひ不申候。

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春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香《か》やは隠るる
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「梅闇に匂ふ」とこれだけで済む事を三十一文字に引きのばしたる御苦労加減は恐れ入つた者なれど、これもこの頃には珍しき者として許すべく候はんに、あはれ歌人よ、「闇に梅匂ふ」の趣向は最早打どめに被成《なされ》ては如何《いかが》や。闇の梅に限らず、普通の梅の香も『古今集』だけにて十余りもあり、それより今日までの代々の歌よみがよみし梅の香は、おびただしく数へられもせぬほどなるに、これも善い加減に打ちとめて、香水香料に御用ゐ被成候は格別、その外歌には一切これを入れぬ事とし、鼻つまりの歌人と嘲《あざけ》らるるほどに御遠ざけ被成ては如何や。小さき事を大きくいふ嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候。
[#地から2字上
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