申、もしわが身一つの秋と思ふと詠《よ》むならば感情的なれども、秋ではないがと当り前の事をいはば理窟に陥《おちい》り申候。箇様な歌を善しと思ふはその人が理窟を得《え》離れぬがためなり、俗人は申すに及ばず、今のいはゆる歌よみどもは多く理窟を並べて楽《たのし》みをり候。厳格に言はばこれらは歌でもなく歌よみでもなく候。
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芳野山|霞《かすみ》の奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり
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八田知紀《はったとものり》の名歌とか申候。知紀の家集はいまだ読まねど、これが名歌ならば大概底も見え透《す》き候。これも前のと同じく「霞の奥は知らねども」と消極的に言ひたるが理窟に陥り申候。既に見ゆる限りはといふ上は見えぬ処は分らぬがといふ意味は、その裏に籠《こも》りをり候ものを、わざわざ知らねどもとことわりたる、これが下手と申すものに候。かつこの歌の姿、見ゆる限りは桜なりけりなどいへるも極めて拙《つたな》く野卑《やひ》なり、前の千里《ちさと》の歌は理窟こそ悪《あし》けれ姿は遥《はるか》に立ちまさりをり候。ついでに申さんに消極的に言へば理窟になると申しし事、いつでも
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