ば》によって、ブラドンはたくみにクロスレイ夫人はじめ下宿の人々を瞞着《だま》して、底を割ることなく、この芝居を打ちとおしたのだ。ことにそのもっとも巧妙な部分は、事件の二日前にビリング医師を訪問してアリスの診断を乞《こ》うたことだった。どんな健康体でも、医師が診《み》ればどこか不完全な個所があるに相違ない。神経衰弱の気味だとか、すこし心臓が弱いようだとか、そういう漠然とした故障は、たれにでもあるものだ。また医者の身になってみれば、診察を乞われた以上、専門の手前もあり、無理に探しても、一つ二つ悪いところを発見して、それをいくぶん誇張して患者の注意を促《うなが》さなければならないという心理もあるであろう。その患者が、まもなくこうして急死を遂げたのだから、ビリング医師は内心不思議に思いながらも、外面はいくらか自分の職業的|慧眼《けいがん》を誇るようにさえ見える。もちろんその場で死亡証明書を書いて署名した。
「故アリス・ブラドンは、十二月十二日、ランカシャア州ブラックプウル町コッカア街、クロスレイ夫人方の浴槽において、過熱の浴湯のため、心臓の発作を招発して過失死を遂げたるものとす。」
これさえ手にすれば、ブラドンは安心できた。アリス・バアナムは、こうして良人《おっと》アウネスト・ブラドンの「涙」のうちに葬《ほうむ》られたのだった。
2
だれ一人ブラドンを疑う者のなかったことは、いうまでもない。ビリング医師はもちろん、クロスレイ夫人も、自分がビリング医師を教えて、ブラドンがそこへアリスを伴《つ》れて行ったことを知っているので、彼らのすべてにとって、ブラドンはたいして悪くもないのに花嫁の健康を気にして医者に見せるほどの、おかしいくらいな、代表的愛妻家でしかなかった。その「愛妻」のアリスを失ったブラドンに下宿じゅうの同情が集まったのは当然だった。
ところが、アリスの死後、まもなくブラドンの態度が一変してなんら妻の死を悼《いた》むようすがなくなったので、クロスレイ家の人々は、それをぴどく不愉快に思って、排斥《はいせき》の末、彼を下宿から追い出すにいたった。ブラドンはただ真個《ほんと》の彼が出てきたにすぎないのだが、由来、ランカシャアの人は、田舎者の中でも道義感の強い頑固な人たちとなっているので、この、最近死んだ妻のこともけろりと忘れたように陽気にしているブラドンを、看過《かんか》することはできなかったのだ。ブラドンが下宿を出る時、クロスレイ夫人が面とむかって痛罵《つうば》すると、彼は平然として答えた。
「死んだやつは、死んだやつさ。」
この When they're dead they're dead という、アウネスト・ブラドンことジョウジ・ジョセフ・スミスの言葉は、彼ならびに彼と同型の常習殺人犯の、病的に冷酷な心状を説明する最適の言辞として、いまだに、犯罪研究者の間に記憶されている有名なものである。じつにジョウジ・ジョセフ・スミスは、「一杯の葡萄《ぶどう》酒を傾けるような」日常的な気易さをもって、つぎつぎに花嫁として彼の前に現われる女を殺しまわったのだ。そして一人殺すごとに、彼は内心|呟《つぶや》いたに相違ない。「死んだやつは、死んだやつさ」と。この種の犯罪者は、常にこの徹底した利己観念のうえに立っていて、そのうえ自己の犯罪能力と隠蔽《いんぺい》の技巧を信ずることすこぶる厚いのを特徴とする。したがって殺した方が目的に適《かな》う場合には、みずからを逡巡《しゅんじゅん》や反省なしに平気で殺人を敢行《かんこう》するのである。そして、that's that として、すぐに忘れる。ブラドン本名スミスの言った When they're dead they're dead の一言は、この意味で、その間の心理的消息を説明してあますところない。実際このスミスは、多殺者列伝の中でも第一位に推《お》されるべき傑物《けつぶつ》だ。その細心いたらざるなき注意と、事件にあたってまず周囲の人を完全に欺《だま》す俳優的技能とは、まさに前古|未曽有《みぞう》のものといわれている。また彼は、犯罪史に、一つの秘密な「家庭的」殺人方法を加えた発明家でもあった。それがここにいう「浴槽の花嫁」なる天才的な独創である。長く気づかれずにすぎたのだった。
性的動機よりも、スミスの女殺しはむしろ稼業《ビジネス》として金銭が目的だった。この点いっそう彼をして冷血動物の感あらしめるが、女殺しといえば、このスミスこそ真の女殺しであろう。
アウネスト・ブラドンと変名したジョウジ・ジョセフ・スミスと、看護婦アリス・バアナムとが知りあいになったのは、英国南部の海岸町アストン・クリントンだった。バアナム家は、そうとう手広くやっている石炭屋で、父母と、アリスのほか五人の兄弟姉妹
前へ
次へ
全14ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧 逸馬 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング