コが聞えた。ブラッチ夫人は別に気に留《と》めないで用をしているところへ、いつのまにか良人《おっと》のロイドの方が降りて来ていて、階下の応接間で彼の弾くピアノの音がしていた。ピアノの音は十分ほど続いた。そのうちにロイドは玄関から出て行った様子だ。おもての扉が大きな音を立てて締まった。と思うまもなく、玄関でベルが鳴った。ブラッチ夫人が出て行って開けると、はいって来たのは、いま出て行ったばかりのロイドだった。ついその近くの大通りまで買物に行ったのだが、急いで飛び出したので帰りの鍵を持って出るのを忘れた。ベルを鳴らして開けてもらったりしてすまないと言って、彼は快活に笑った。買って来た品物は、今度は鶏卵ではなかった。トマトだった。
「家内はまだ食事に降りて来ませんか。」
「いいえ。」
「長湯だなあ。何をしてるんだろう。」
階段を上りながら、ロイドは大声に呼んだ。
「出ておいでよ、好《い》いかげんに。」
返事がない。ないはずだ。その時はすでにマアガレット・エリザベス・ロフティはスミスのいわゆる「裸体の天使」の仲間入りをしていたのだが、その妻の名を呼ばわりながら浴室へはいって行ったロイドは、たちまち転がるように出て来て「驚愕《きょうがく》用」の声で叫んだ。
「来て下さい。家内が――。」
あとは口もきけないといった態《てい》だ。ブラッチ夫人はじめいあわせた下宿人たちが駈け上って見ると顔色を変えたジョン・ロイドが、着衣の濡れるのもかまわず、夢中で浴槽の中の妻の屍《し》体を抱き上げようとしていた。その濡れた女の裸体を湯の中から釣り上げる姿態は、ジョウジ・ジョセフ・スミスとして、彼が長年手がけて来た、古いふるい職業的ポウズであった。マアガレットは湯槽の細くなっている方の底へ鼻を押しつけて、臀《でん》部を湯の上へ突き出して、ちょうど回教徒の礼拝のような恰好《かっこう》で死んでいた。どんな恰好で死のうと When they're dead they're dead.
さっそく呼ばれて来たベイツ医師が、細かく首を振って哀悼《あいとう》の意を表しながら、「ロイドのために」死亡証明のペンを走らせた。自己の過失による浴槽内の溺死の例が、また一つ殖《ふ》えた。風邪《かぜ》を引いて心臓が弱っている時に、熱い湯の中に長く漬《つ》かっていたりするのが悪いのだ。眩暈《めまい》を感じて卒倒したきり、ふたたび起《た》ちえなかったのだろう。悲しむべき不注意である。口々に慰められて、ロイドはぽかんと口を開けて空を凝視《みつ》めているかと思うと、激しくマアガレットの名を呼び続けたりした。発狂か自殺の懼《おそ》れがあるというので、忙しいブラッチ夫人にとうぶんロイドを見張る用事が付加された。が、三日後にロイドは泣きの涙のうちに、ジェパアンズ・ブッシュの弁護士に頼んで、遺書によってマアガレットの遺《のこ》した物を掻《か》き集め、「泣く泣く」七百ポンドの保険金を受け取っている。が、このマアガレット殺しが、ブリストルの骨董《こっとう》商ジョウジ・ジョセフ・スミスの最後の「掘出物」であった。自分でもおおいに意外だったろう。足はなにからつくかわからない。
殺人鬼とか殺人狂とかいうこの類型に属する犯人には精神異常者が多いというが、このジョウジ・ジョセフ・スミスは例外だった。細心をきわめた手口を観《み》てもわかるように、彼はじつに組織的な時としてははるかに普通人を凌駕《りょうが》する明徹な頭脳の所有者だった。普段は怠惰《たいだ》なくせに、「浴槽の花嫁」の場合にだけ、異様に敏活巧緻《びんかつこうち》に働くのだから、その点がすでに病的だといえばいえるけれど彼の日常の言動を精査しても、何度専門家が鑑定しても、なんら精神的反応を呈《てい》さずに報告はいつもネガチヴだった。それだけ彼が明るみへ引き出された時、世間の憎悪と恐怖は大きかった。彼は建築家のごとく平均を重んずる心で殺人の設計を立て、軍略家のように先を見越して行動し、船長の持つ正確さで犯罪を運転して、半生に亘《わた》って人命の破壊とそれによる財物の横領を職業としたのだ。何人の女を浴槽で殺したか、その数はとうとう明確にわからずに終った。スミス自身カタログを発表したことがないからだというのだが、つまり、カタログになるほど多勢だったことは事実である。この犯罪が発覚した時、世人が色を失って戦慄《せんりつ》したのは無理ではなかった。
George Joseph Smith はベスナル・グリインの保険会社員の家に生まれた。一八九六年に軍隊から出て来るとすぐ女狩りを始めて、その「浴槽の花嫁」なる新手は、十八年後に刑死するまで継続された。頻繁《ひんぱん》に名を変えているので、除隊になってからの足取りを拾うことははなはだ困難とされている。一八九七年に女のこと
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