のレポウトをその戦術に利用して、新造船ワラタ号は、二年前同じ造船所で進水した姉妹船 The Geelong 号に較べて、著しく安定が悪い。そして安定の悪いのは造船の不出来だから、約束の値段を負けろという談判を始めた。何でもかんでも負けさせるのが目的だから、この、ワラタ号の不安定という事は、会社側から非常に大袈裟に相手方の造船所へ通じられ、また外部の船舶関係へ向っても幾分声を大にして呼ばれた訳である。で、ワラタ号が不安定であるということは、斯ういう事情から、事実以上に宣伝されて、そのために船長も会社も、ちょっと自繩自縛的に困惑を感じていた位いなのだった。が、品物が出来て渡して終ってから、けちをつけられて値引きをされたのでは遣り切れない。バアクレイ・カアル造船所も躍起になって、断じてそんな事はないと言い張る。空船《カラ》でも、荷物を満載しても、ワラタは立派にバランスが取れていると言って一歩も退かない。かなり長いあいだ大喧嘩が続いた。この争論の最中に運命の第二航海に上ったので、そう言えば最初から問題の多い、嫌な船だった。
英国の植民地政策華やかなりし時代である。英濠間を結ぶ生命線上第一の花形として、竣工の翌年、一九〇九年四月二十七日に、ワラタ号は濠洲へ向けて第二回の航海に出発する。イルベリイ船長、コックス機関長、T・ノルマン一等運転士の他は、高級船員から乗組員全部、この一航海だけを期間に雇われた者許りだった。船と一緒に行方不明になるために、この乗組契約に署名のペンを走らせた人達だ。前に言ったように乗組員百十九名濠洲の港にあちこち寄港した後、七月七日、アドレイドを出帆する。Adelaide ここは、タスマニア海峡をすこし北上したところで、筆者も訪れたことがある。如何にも濠洲らしく鄙びてはいるが、鳥渡した港町で、大学などもある。このアドレイド港で濠洲に離れたワラタ号は、同月二十五日に南亜のダアバンへ着き、補炭とともに、新たに二百四十八噸の貨物を積み込む。で、一万噸以上の積荷で二十六日ダアバン港を出たと言われているが、次ぎの寄港地は、何度も言う通りにケエプ・タウンである。翌二十七日の午前六時に、ワラタ号より数時間先だってダアバンを出港し、イースト・ランドンへ向っていた例のクラン・マッキンタイア号―― The Clan Mackintyre ――を追い抜く。その時、両船の間に交
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