れの激しいとこに、不安を感じて旅程を変更し、ケエプ・タウン港まで行く筈だったのが、他の便船に依る心算《つもり》で急にダアバン港でワラタを下りた客が一人あった。普段から信神深い人だった――か何うかは知らないが、差詰め夢枕か何かで、神のお告げでもあったのだろう。実に運の好い人で、虫の知らせでこのダアバン、ケエプ・タウン間のワラタ号に乗っていなかったばっかりに助かった訳だが、この人は、幾らか船の知識や経験があったらしく、今も言ったように、濠洲からダアバンまでのワラタの揺れ具合いで、こいつあ危ないと感じたのだ。ほかにも、この前の処女航海に乗った人があちこちに現れて、皆ワラタは「頭の重い」の感じで不安な船だったと口を合わしている。これらが一層覆伏説を裏付けて、ワラタ号は大颶風に捲き込まれて瞬く間にくるりと船底を見せ、海中深く呑まれ去ったもの――という臆説が、先ず満足に近い解決として今日に及んでいるのだが、併し、それにしては、あれだけ長期に亙る大規模の捜査に係らず、船体の破片、船具、荷物、屍体などが、一つとして発見されないのは確かに神秘である。何か漂流しているか、海岸に流れ着くか、兎に角、一万七千噸もある大客船が沈没した以上、何かしらそれだけの証跡がなければならない。あるのが理窟であり、また常例でもある。ところが、くどいようだが、ワラタ号の最後を語る何らの発見物も無いところに、この事実物語の魅力があるので、ワラタ号を題材にした幾多の海洋冒険小説は、実にこの点に生れた。或いは、全員、海図にない無人島に漂着して新しい社会を営んでいることの、そこでは、新型式の結婚――九十二人の船客の中には女性も沢山いたに相違ない――によって子孫が殖え、新しい都会と、農作と、議会と、牧畜と、産業と、平和と闘争と秩序と、一言には、すべて新奇のそして小型の人類生活が開始されているというのやら、あるいは、いまだかつて人間の知らない海の巨大動物が現れて、ワラタ号を人諸とも一呑みにしたのだことのと[#「したのだことのと」はママ]、怪異な事実によってスタアトした空想は、限りなく伸びる。見て来たような話しが伝わった揚句、おれこそはワラタ号の生き残りだなどと言い出すいんちき人物も、其処此処に現れたものだ。筆者らが少年時代に胸を轟かせた押川春浪式の読物は、多くこの「ワラタ号後日物語」といった形式のものである。全く今でも
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