いるのは、同じく死だ。二つの死の間に立って、マタ・アリは、やはりスパイらしい死を選んでいる。

 同年四月九日|払暁《ふつぎょう》を期して、ニヴィイユ元帥は全軍を躍らせて総攻撃に移る。シャンパアニュの原野。ところが、マタ・アリの予報で待ちかまえていたのだからたまらない。用意なしと見たドイツ軍に大準備ができていて、猛烈な逆襲に遭《あ》い、連合軍はさんざん敗北。いちじは、大戦そのものの運命をさえ決定しそうに見えた。
 自室の窓際に椅子を引いて、マタ・アリが、裸体で日光浴をしているとき、同月十六日の朝だった。ノックもなしにドアが開いて三人の男がはいって来る。
「H21! 着物を着て一緒に来い。」
 マタ・アリは愕《おどろ》かなかった。ただ、取り縋《すが》るような視線を一行の首領らしい男に向けた。
「別室で着物を着たいんですけれど――。」
 もちろん、許されない。首領の監視の下《もと》に裸体を包みながら、マタ・アリは忙しく考えている。H21とドイツ密偵部の番号で呼ばれたことだけで、彼女は最後の時が来たことを知った。他の二人は、アパアトメントじゅうを家宅捜索を始めている。マタ・アリは、着物を着《つ》けつつある自分に据《す》えられた男の眼が、そういう状態に在る美しい女を見ているのではなく、敵国の一スパイを見ているにすぎないのを知って、悲しかった。
 着物を着終ると、彼女の態度は急に強くなった。
「あなた方がいらっしゃったら、なんだかお部屋が臭くなったようね。」ひどいことを言って
「香《こう》を焚《く》べましょう。」
 傍《かたわ》らの小卓に、緑色青銅の壺に金飾《きん》の覆を被《かぶ》せたインドの香炉が置いてある。マタ・アリは、マッチを擦《す》って手早く覆の小穴から投げ落す。白い煙りがあがった。
 監視していたフランス特務員が、つと走り寄って香炉の蓋《ふた》を取る。底に隠された手紙が、燃えかかっているのだ。掴《つか》み出して揉み消す。読んでみる。"M ―― Y" という署名があった。

 みんな恋文なのである。立派な文章でしっかりした中年過ぎの男の筆蹟だ。だれだと訊《き》いてもマタ・アリは答えない。答えなくても、筆者がだれであるか、密偵内部の第二号にだけはわかっていた。が、M――Yという署名、判然としているようで明瞭でない。そこを押してゆくと、マタ・アリは頑《がん》と口を噤《つぐ》んでいる。いざという場合にこの恋文を出して助命運動をするつもり、それで保存しておいたのだが、そのいざという場合のいま、彼女はそれを焼こうとした。しかも、あくまで相手の名を明かそうとしない。淋《さび》しい男性は、時として途上に出会《でっくわ》した売春婦に大きな秘密を打ち明けるものだ。時としてまた、そういう女たちは、身をもって男の秘密を守ろうとする。この、マタ・アリが最後に示した一片の意気は、売春婦のそれにも似て、哀れに壮烈だといえる。
 投獄されたのは、聖《サン》ラザアル刑務所だった。

 マタ・アリは軍事裁判に付された。その評判は欧州はもちろん、全世界の新聞に喧伝《けんでん》されているから、記憶している読者もあろう。秘密裁判だった。密偵部第二号の選択によって、報《しら》せていいことだけ公表されているにすぎない。彼女の記録は、ベルリン・ドロテイン街の家、ヘンダスン少佐との出会いの当時まで溯《さかのぼ》って、そのころから英仏にとってそういう意味での要視察人だったと判明している。欧州戦争が十年、二十年以前から予期されて、各国とも軍備とスパイ戦に忙しかったことがこれでも知れよう。

 パリーはいまさらのようにドイツ密偵部員の潜略《せんりゃく》に驚いて、エッフェル塔の無電に絶えず高力の電波を放ってすこしでも怪しい暗号電報の妨害を試みる。同時に、フランス特務機関の暗合が一時に変改された。マタ・アリはドイツのスパイなどとは夢にもおぼえがないと無罪を主張し続けたが、まもなく、一九一六年七月二十五日、射殺の判決がくだる。各方面からの命|乞《ご》いは猛烈をきわめたもので、本人はすっかりその効果を信じているから、聖《サン》ラザアルの刑務所で悠々閑々《ゆうゆうかんかん》、あの嘘八百の告白体自伝はここで書いたのだ。

 三人の尼僧が付ききりでしきりに神を説《と》き懺悔《ざんげ》を奨《すす》める。マタ・アリはせせら笑って耳を籍《か》そうともしない。それは処刑の朝、八月十一日午前五時だった。
 マリイ尼という一人が独房の前に立って、
「あなたは今まで人のために踊ってきましたわね。今朝《けさ》は一つ御自分のために踊ってはいかがです。」
 ここにおいてマタ・アリは、黒衣の尼僧の前で例のでたらめの東洋踊りをやっている。どうもちょっと滑稽《こっけい》な、憎めない存在だった。
 舞踊なかばにして、重い靴音が刑務所の石廊を近づいてきた。こういう場合、死刑囚を急激に愕《おどろ》かせないために、覚悟を教えて、わざと遠くから跫音《あしおと》を立てて来るのだ。マタ・アリは、夜会にでも出席するように美装を凝《こ》らして人々を驚倒させた。
 にこにこして刑場に引き出されて行く。

 数多い「恋人」の一人でもっとも熱烈な彼女の讃美者ピエル・ドュ・モルテサックが、ひそかにマタ・アリに吹き込んだのだという。
「軍規の手前、銃殺しなければならないことになっているのだから、法を曲げるわけにはゆかない。で、形式的に処刑するのです。つくり狂言です。銃殺に使用する弾は空弾だから、音がするだけで、なんともない。あとから屍《し》骸ということにして国境外へ運び出す手筈《てはず》になっている。」
 一時慰めようという慈悲心からか、それとも意地の悪い意味からか、それは観方《みかた》一つだが、とにかくこういうことをささやかれて、マタ・アリはそれを信じきっていた。だから、刑場に出るものとは思われない華やかな態度で、ヴァンサンヌの城壁の前に立つ。一隊の竜騎兵《ドラグウン》が銃を擬して待っていた。芝居とばかり思い込んでいるマタ・アリである。元気よく手を振って射撃隊に挨拶《あいさつ》したりした。

 発砲された。空弾でないことを知った時のマタ・アリの驚愕《きょうがく》、立ち会った人々はその悲鳴にみな耳を抑えたというから、よほど諦めの悪い死を死んだものだろう。無理もない気もする。騙《だま》し討ちのような遣《や》り方だった。
 死刑場には、ピエル・ドュ・モルテサックはじめ彼女の騎士連が多勢詰めていた。検|屍《し》官が蜂の巣のようになって土に横たわっているマタ・アリの死体を靴の先で軽く蹴りながら、
「どなたか引取人がありますか。」
 だれも出なかった。

 何国《どこ》も同じことで、このマタ・アリ事件が政争の具に使われている。問題になったのは、マタ・アリに恋文を書いているM――Yの署名にあたる某閣僚である。M――Yはだれか? さあ、騒ぎになった。シャンパアニュの野の総攻撃でめちゃくちゃに遣《や》られたニヴィイユ元帥ら、軍閥がまず承知しない。内務大臣ルイ・マルヴィ―― Louis Malvy ――を槍玉にあげた。
「M――Yといえばマルヴィにきまっている。手蹟《しゅせき》も似ているし人物もあたる。マルヴィは踊り子スパイをつうじて祖国をドイツへ渡したのだ。売国奴だ。」
 この叫びがひろまって、マルヴィの公判となる。四人の前首相が弁護に立ったが、戦時で軍人が威張っている。ニヴィイユ一派の軍閥が勝って、マルヴィ氏は失脚、七年間の追放に処される。やがて平和回復、人心秩序の樹立に飢えている時、大統領エリオットに特赦《とくしゃ》されて、マルヴィ氏はふたたび入閣したが、議会の反対党は彼を忘れなかった。
「マタ・アリ! マタ・アリ! マタ・アリ!」
 の弥次《やじ》に完全に封じ込まれて、何度も壇上に立往生した末、七年間の恥と苦痛に健康を害《そこ》ねている。卒倒してしまった。才腕ある士だったが、まもなく政界を退《ひ》いている。

 二年後に、ある婦人記者が、マルヴィ氏を追った軍閥の一人、大戦当時の陸軍大臣メサミイ元帥―― Messimy から驚くべき告白を取った。マタ・アリの恋人M――Yはこの General Messimy だった。



底本:「浴槽の花嫁−世界怪奇実話1[#「1」はローマ数字、1−13−21]」教養文庫、社会思想社
   1975(昭和50)年6月15日初版第1刷発行
   1997(平成9)年9月30日初版第8刷発行
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2006年9月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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