て出て来てひょろひょろ[#「ひょろひょろ」に傍点]此処に立ってやがるんだ。それが為吉を無性《むしょう》に怒らせた。いっその事予定通り此野郎が死んでいて呉れたら、そしたら? そしたら此儘此船で遠い懐しい海外へ行けるじゃないか――いや、待てよ、今だって決して遅くはないぞ。なあに訳はない、奴はあんなに弱り切って死んだも同然だ――否、事実死んでいるんだ。其証拠には此俺が下手人にされているじゃないか――、そして、そしておまけに此処は法の手の届かない貨物船の釜前《フレイタア》じゃないか――そうだ、今が絶好の機会だ――が、一体何の機会だと言うんだ――いや、どうせ森為吉が貰った筈の命なんだ、それでこうやって乗れた船だと言うまでのことなんだ。海外、外国、そうだ、この呪われた小刀《ナイフ》で――そうだ――教えられたとおりに――あの刑事に暗示されたとおりに――。
為吉は立上った。
「逃げる前に俺あ水が、水が呑みてえ――水――」坂本は唸るように言った。
※[#ローマ数字3、1−13−23]
警察の推測通りだった。坂本新太郎は死んだのである。そしてそれと同時に森為吉という男も地球の表面からその存在を失ったのだった。
暫らくして再び神戸を抜錨《ばつびょう》した諾威《ノルウェー》船ヴィクトル・カレニナ号が大洋へ乗出すと間もなく、帆布に包まれて火棒《デレキ》を圧石《おもし》に付けた大きな物が舷側《サイド》から逆巻く怒涛の中へ投込まれた。
その甲板に口笛を吹き乍ら微笑して、坂本新太郎は日本の土地に永久の別れを告げていた。
古来、世界の船乗《シイメン》仲間の不文律に従って「上海《シャンハイ》された男」坂本新太郎と自分を「上海《シャンハイ》」した坂本新太郎とは共に茲《ここ》に二度と再び土を踏めないことになったのである。
[#地付き](〈新青年〉大正十四年四月号発表)
底本:「日本探偵小説全集11 名作集1」創元推理文庫、東京創元社
1996(平成8)年6月21日初版第1刷発行
1998(平成10)年8月21日再版
初出:「新青年」
1925(大正14)年4月号
入力:大野晋
校正:noriko saito
2005年6月15日作成
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