れない前で、一般にはなんら知れていなかったのだ。
 このことを頭に置いて、ライオンスの言うところを聞くと、こうである。
 昨夜また、バアナア街に斬裂人《リッパア》が現われたと聞いて、ライオンスは思い切って自分の経験を述べに出頭したのだが、それによると、彼女は大変な命拾いをしている。
 数日前の深夜、例によって相手を探してホワイトチャペルのピンチン街を歩いていると、むこうから来かかった一人の男が、知り合いらしく帽子に手をかけて挨拶した。これは、男のほうから街上の売春婦を呼びとめる場合の、一つのカムフラアジュ的常法である。ピンチン街は、ユダヤ人の小商人の住宅などが並んでいて、入口が円門《アウチ》のようになっている家が多い。このころのロンドンだからあいかわらず霧がかかってはいたが、霧の奥に月のある晩だったので、二人は、その一つのアウチの下に人目を避けて立話しした。
「どこか君の知ってる静かなところへ伴《つ》れてってくれないか。」
 男はこう言ったという。言いながらズボンのポケットを揺すぶって、金を鳴らして聞かせた。このとおり金を持っているというのだ。
 ここでライオンスは、この男の語調には多
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