寄りあっていたんだから耳のかたわらで爆弾が破裂しても、聞えるはずがない。あとでみんな悪口を言った。とにかく、こうして屍《し》体にばかり気を取られていた発見者の横を、影のようにするりと抜け出たであろう「斬り裂くジャック」は、すぐその足でアルドゲイトのミルト広場《スクエア》へ立ちまわり、四十五分後には、また一人キャザリン・エドウスという辻君《つじぎみ》を殺害し、やはり陰部から下腹を斬り裂いて、子宮を取っている。このキャザリン・エドウスをはじめ多くの被害者が、いかに哀れに貧困な、下層の売春婦であったかは、キャザリン・エドウスが、炊事に汚《よご》れたエプロン姿で男――犯人――と他人の家の軒下で性行為を行ない、そのまま殺されていた一事でもわかる。犯人はこの前掛けの端をむしり取ってそれで手とナイフを拭「た。拭《ふ》きながら歩いたものとみえる。さして遠くないグルストン街の角に、その、血を吸って重くなったエプロンの切布《きれ》が落ちていた。そして、このグルストン街の角で、犯人はあの、有名な「殺人鬼ジャックの宣言《メッセイジ》」をそこの璧へ白墨《はくぼく》で書いたのである。
 The Jews are not the men to be blamed for nothing.
 これは、考えようによって二様にとれる文句である。「ユダヤ人はただわけもなく糺弾《きゅうだん》される人間ではない」――糺弾されるには、糺弾されるだけの理由がある。とも、解釈すればできないことはないが、もちろんそうではない。「ただわけもなく糺弾されて引っ込んでいるもんか。このとおりだ」の意味で、味わえば味わうほど不気味な、変に堂々たる捨て科白《ぜりふ》である。
 この楽書《らくがき》はじつに惜しいことをした。書いてまもなく、密行《みっこう》の巡査が発見して、驚いて拭き消してしまったのだ。付近にはユダヤ人が多い。反ユダヤの各国人も、英国人をはじめもちろん少なくない。この文句が公衆の眼に触れれば、場合が場合だけに群集が殺到してたちまち人種的市街戦がはじまる。実際そういう騒動は珍らしくないので、それを避けるために独断で消したのだという。気をきかしたつもりで莫迦《ばか》なことをしたもので、あとから種々の点を綜合してみると、この壁の文字こそは、それこそ千載一遇《せんざいいちぐう》の好材料だったのだ。これさえ消さずに科学的に研究したら、かならず犯人は捕まっていたといわれている。その出しゃばり巡査はおそらく罰俸《ばっぽう》でも食って郡部へまわされでもしたことだろうが、いうところによると、この楽書《らくがき》の書体は、これより以前、二回にわたってセントラル・ニュース社に郵送された、一通の手紙と一葉の葉書の文字に酷似していた。否、紛《まぎ》れもなく同一のものであるとのことである。
 その、新聞社に宛《あ》てた手紙と葉書は、真偽《しんぎ》両説、当時大問題を醸《かも》したもので、葉書のほうは、明らかに人血をもって認《したた》め、しかも、血の指紋がべたべた[#「べたべた」に傍点]押してあった。両方とも「親愛なる親方《ボス》よ」というアメリカふうの俗語を冒頭に、威嚇《いかく》的言辞を用いて新しい犯行を揚言《ようげん》し、手紙には「売春婦でない婦人にはなんらの危害を加えないから、その点は安心していてもらいたい」という意味を付加して、ともに「斬裂人《リッパア》ジャック」と、署名してあった。あとからも続けてきたことをみても、たぶん実際の犯人が執筆|投函《とうかん》したものかもしれない。が、どこの国にも度しがたい馬鹿がいる。この「斬り裂くジャック」が現下の視聴を集めているので、なにか素晴しい人気者かなんぞのように勘違いし、そうでないまでも、ひとつ面白いから騒がしてやれなんかという好奇な閑人《ひまじん》があってかかる不届《ふとど》きな悪戯《いたずら》を組織的に始めないともかぎらない。おおいにありそうなことである。警視庁へも、これに類似の投書が山のように舞い込んでいた最中だ。したがって専門家は、このセントラル・ニュースの受信にもたいした信を置かずに、むしろ頭から一笑に付していた。しかし、グルストン街の壁の文字だけは、最初のそして最後の、純正な犯人の直筆《じきひつ》である。この唯一の貴重な証拠が、心ない一巡査の手によって無に帰したのは、かえすがえすも遺憾の極《きわみ》であった。

        2

 一般には知られていないが、この時、警視庁は、ロシア政府から一つの情報を受け取って、それにある程度の重要性と希望をつないでいた。数年前、モスコーにこれと同じ事件が頻発《ひんぱつ》して、やはり売春婦のみが排他的に殺され、切開手術のような暴虐が各|屍《し》体に追加してあったが、この犯人は捕縛《ほばく》されて、精神病者と
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