といえば、ロンドンでは、いや、英国ではだれでも知っている。およそなんらかの観点で、世界じゅうの血なまぐさい出来事に興味と注意を向けている人なら、かならず聞いたことのある名に相違ないだろう。
 依然として全ロンドンを、名物の濃霧にも比すべき恐慌が押し包んでいた。
 現場は、前から言うとおり、この厖大《ぼうだい》な都会のなかで、世界の塵埃棄場《ごみすてば》と呼ばれる細民《さいみん》街イースト・エンド、そこへ踏み込もうとするアルドゲイトと、多く、ユダヤ人が住んでいるので有名なホワイトチャペル街との間の、あの、暗い小庭と不潔な露地《ろじ》が網の目のように入りこんでいる陰惨な一劃《いっかく》である。滞英中、筆者はとくに護衛者を雇って、日中と深夜、前後数回にわたってこの辺一帯を探検したことがある。まったくそれは、探検という言葉がなんらの誇張もなく当てはまるほど危険な、ないしは危険を感ずる、都会悪の巣窟《そうくつ》なのだ。社会事業視察、都市経営の研究というようなことで、自身警視庁へ出頭してよく頼めば、その方面に通ずる私服刑事をひとり付けてくれる。が、私はいま、このロンドンのイースト・エンドにおける私の経験や観察を述べたり、ここの夜で私に直面したさまざまの光景を描いたりしようとは思っていない。ただしかし、実際の場所を知っている私は、この兇猛《きょうもう》な犯罪実話を書くにあたって、特殊の個人的|感興《かんきょう》を覚えるのである。そしてそれは、いくぶんの現実性をもってこの物語を裏打ちするに相違ないと信ずることができる。
 ロンドン人は、何人《なんぴと》も新たなる凄慄《せいりつ》なしには、あの晩秋を回顧し得ないであろう。
 最後のリッパア事件としていまだに記憶されている、十一月九日、金曜日の夜だった。
 もうすっかり冬の化粧をしたロンドンである。一日じゅう離れなかった霧が、夕方ちょっと氷雨《ひさめ》に変わったりして、その晩はことに黒い液体が空間に流れ罩《こ》めたような、湿った暗夜だった。が、新聞町フリイト街からは、深夜の電話によって召集された各社社会部記者と、遊撃《ゆうげき》記者の全部が、沈黙のうちにぞくぞくとこのアルドゲイトにむかって繰り出されつつある。「血《ち》の脅威《テラア》」――ジャアナリズムはいちはやくこの連続的犯行をこう命名していた――が、またもやこの夜、貧窮と汚毒《おどく》と邪悪のイースト・エンドを訪れるのだ。白い霧に更《ふ》けた街路に、蟻《あり》も逃さぬ非常線が張りつめられ、濡《ぬ》れた舗道を踏んで、人の靴音は秘めやかに鳴った。通行人のうち、男はすべて巡査か密行《みっこう》刑事か新聞記者だった。女は、この界隈《かいわい》につきものの、売笑婦だった。この、街の女たちも、さすがに一人で歩くことを恐れて、商売にはならなくても、三、四人ずつ、雪に遭《あ》った羊のようにかたまって、霧の中から出て霧へ消えた。漂白したような蒼い顔とよろめく跫音《あしおと》だった。彼女らは、街上に会う人ごとに殺人狂ではないかとおびえて、声をあげたりした。
 ふたたび言う。「斬り裂くジャック」は、職業的に、あるいは趣味的に、この売春婦という社会層に属する女だけを選んで、斬り裂くのである。斬り裂く――文字どおり、生殖器から上部へかけて外科的に切開し、引裂《リップ》するのだ。
 この真夜中の怪物の横行にたいして、警察の無能を責める一般公衆の声は極点に達していた。が素人《しろうと》の市民たちが騒ぎだす前に、その筋の活動がとうに白熱化していたことも私は前言した。しかし、それは、犯人逮捕の段取りにいたらないなんらの弁解にはならないとあって、この時すでに警視庁部内には、チャアルス・ウォレン卿が責を負って辞職するやら、幾多の非壮な場面が作られていた。このウォレン卿の辞職演説はひじょうに刺戟《しげき》となって管内の全警察官を鼓舞《こぶ》した。ロンドンじゅうの警官が新しい力を感じてこのテロリスト・ジャックの捜査に勇躍した。当局のみならず、市民の有志も協力して、この街上の女の屠《と》殺者、暗黒を縫《ぬ》う夜獣を捕獲しようと狂奔《きょうほん》し、ありとあらゆる方策が案出され実行された。徹夜の自警団も組織された。探偵犬は付近に移されて出動を待っていた。すべての暗い辻、街燈の乏しい広場には、そこに面する家の二階に刑事が張り込んで徹宵《てっしょう》窓から眼を光らせた。特志の警官隊が女装して囮鴨《おとり》として深夜の町に散らばった。ホワイトチャペル街の夜の通行人は一人残らず不審訊問を受けた。挙動不審の廉《かど》で拘引《こういん》された嫌疑者、浮浪人、外国人らは全国でおびただしい数にのぼった。手がかりらしく思われる事物は、いかに些細《ささい》なことでもいちいち究極《きゅうきょく》までたぐった。
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