れない怖愕《テロリズム》の極点に達して、犯人が手を使用して引き出したらしい腹部の内部諸器官が、鮮血の溜《たま》りと一緒に極彩色《ごくさいしき》の画面のように、両|大腿《だいたい》部に挟《はさ》まれて屍体の膝のあたりまで真赤に流出していた。そしてそれらを玩弄《がんろう》した痕跡歴然たるものがあり、のみならず、子宮だけがたくみに摘出《てきしゅつ》して持ち去ってあったことなど、これらはすべて前回に記述したとおりである。現場は同じバアナア街で、四四番のパッカア果実店からは、石を投げて届く距離にある、人鬼ジャックがじつに野獣的に、非常識にまで豪胆《ごうたん》であり、いかに無人フ境を往《ゆ》くような猛暴を逞《たくまし》うしたかは、この、犯行の場所を選ぶ場合の彼の病的な無関心だけでも、遺憾《いかん》なく窺《うかが》われよう。ただこの九月三十日の夜、パッカア方へ葡萄《ぶどう》を買いに立ち寄ったエリザベス・ストライドの同伴者こそは、警視庁をはじめ全ロンドンが、爪を抜きとった指で石を掘りさげても発見したいと、日夜|焦慮《しょうりょ》していた殺人鬼その人であったことは、なんら疑念の余地がないのである。
 本事件は、今日にいたるまで警察当局と犯罪学者とに幾多の研究資料を呈与《ていよ》しているいわゆる「迷宮入り」である。したがって普通の探偵物もしくは犯罪実話のごとく、「いかにして犯人が逮捕されたか」にその興味の重心を置くものではなく、逆に、「どうして逮捕されなかったか」がその物語の中点なのだ。
 前回にもたびたび詳言《しょうげん》したように、比較的小範囲の地域に、古来チイム・ワークにかけては無比の称ある|ロンドン警視庁《スカットランド・ヤアド》が、その刑事探偵の一騎当千《いっきとうせん》をすぐって、密林のように張りわたした警戒網である。それを随時随所に突破して、この幻怪な犯罪は当局を愚弄《ぐろう》するように連続的に行なわれるのだ。しかも犯人は、不敵にも堂々と宣戦|布告《ふこく》的な態度を持続している。おまけに、続出する被害者の身分まで厳正に一定され、いままた、こうして犯人の顔を実見《じっけん》した者さえ出てきたにかかわらず、ついに捕縛《ほばく》の日を見ることなくして終ったのだ。警視庁の手配が万善《ばんぜん》を期したものであったことはいうまでもない。事実、当時のロンドン警視庁は、かの大ブラウン
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