ね》じ曲げるために、故意にそういう書き方をしたものと見ることもできないわけはないが、とうてい外国人――正規の英語の教養があればあるほど――の手に成った文面とは首肯《しゅこう》されないし、またいかに狂人であっても、医者ならばあれほど無学な手紙は書かない、いや、いくら書こうと努力してもけっして書けないに相違ない。ことに驚くべき一事は、新聞社へきた血書の葉書が、つぎの「ジャック」の犯行時日を予言して、みごとに適中していることである。十一月九日と葉書にあるその日に、スピタルフィルド区ドルセット街ミラア・コウトで、ケリイこと別名ワッツが殺された。これもあるいは、たんにその葉書を投じた悪戯《いたずら》者のでたらめが偶然当っただけのことかもしれないが、あのグルストン街の壁の字さえ残っていたら、両者の筆蹟を比較研究することによって、葉書の真偽《しんぎ》を鑑定することは容易だったのである。
この、世界犯罪史上にもほかに類のない兇悪不可思議な人怪《じんかい》――彼を取り巻く闇黒《あんこく》の恐怖と戦慄《せんりつ》すべき神秘、それらはもう、いまとなっては闡明《せんめい》のしようがないのだ。「斬裂人《リッパア》のジャック」と呼ばれ、また、自分でもそう名乗っていたこの男は、いったい何者であったか? ある種の女たちになにか特別の遺恨《いこん》を蔵していた殺人狂だったのか。それとも、やはり|ロンドン警視庁《スコットランド・ヤアド》の一部が見込みを立てたとおりに、狂える医師ででもあったか。あるいは一説のごとく、宗教上の妄信《もうしん》をいだく狂言者か。これらはすべて彼の正体、現実の犯罪手段、その動機などに関する世人の臆測《おくそく》を残したまま彼が世間の表面から埋めさった永遠の謎である。ことによると、すでにその一切は、彼とともにいまどこかかの墓穴に眠っているかもしれない。事実、これほど連続的に行なわれ、これほど社会を震撼《しんかん》し、しかもこれほど、事件当時のみならず長く以後にわたって、警視庁《ヤアド》内部はもちろん、あらゆる犯罪学者、あらゆる私設探偵局、あらゆる新聞社の専門的犯罪記者等から、種々雑多の理論、推定が提出されたにかかわらず、実際の犯行に関しては、ただ一筋の光明さえも投げられなかったという不可解きわまる事件は、ちょっとほかに比較を求めがたいのである。「斬裂人《リッパア》ジャック」
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