こそ、へっへ、あれだけの顔が揃ったというもの、そこへお師匠さんまで出張《でば》って呉んなすったんでげすから、若旦那も冥加《みょうが》に尽きるなかと申してな、へっへ、下方衆《したかたしゅう》はもう寄ると触るとその噂で――いや、本心、へへへへへへ」
望月、さては長唄下方《ながうたしたかた》の望月だな、と助五郎は小膝を打ちながら、それにしても和泉屋の若旦那というのは? 四日前の大浚えとは? ――さりげなく又七へ視線を向けると、又七は煙たそうに眼を伏せて、出もしない咳を一つした。
饒舌《しゃべ》る丈《だ》け喋《しゃべ》って終ったらしく、表の男はなおも見舞いの言葉を繰り返しながら、そそくさと出て行った。と、急に気が付いたように、助五郎も立ち上った。鬼瓦《おにがわら》のような顔が、彼の姿をちょっと滑稽に見せていた。又七もおろくも別に止めようとはしなかった。それどころか、却って内心ほっとしているらしかった。別れの座なりを二つ三つ交わした後上り口まで行った助五郎は、ずかずかと引っ返して来て、何を思ったものか矢庭にお神棚の下の風呂敷を撥《は》ね退けた。
「ほほう、お内儀、見事な羽二重が――和泉屋さんから届きやしたのう」
おろくは格子戸の方へ眼をやって、取って付けたように叫んだ。
「あれ、また俥屋《くるまや》の黒猫《くろ》が! しいっ!」
「はっはっは」笑い声を残して助五郎はぶらりと戸外へ出た。「ははは、何もああまで誤魔化そうとするにも当るめぇに」
四
「望月の旦那ぇ」
「へぇ――おや、お見それ申しやして、へっへ、何誰《どなた》さまでげしたかな」
「いや、年は老《と》り度《た》くねえだよ。俺はそれ、和泉屋の――」
「おっと、皆迄言わせやせん。あ、そうそう、和泉屋さんの男衆|久《きゅう》さん――へっへ」
「その久さんでごぜえますだ」洗い晒した浴衣の襟を掻き合わせながら、又七の門を出た助五郎は足早やに下方の望月に追い着いて、
「家元さん、そこまでお供致しますべえ」
眼でも悪いのか、しょぼしょぼ[#「しょぼしょぼ」に傍点]した目蓋を忙《せわ》しなく顫《ふる》わせながら、小鼓《つづみ》の望月は二三歩先に立って道を拾う。
「お店へはこの方が近道かね?」
相手を出入り先の下男とばかり思い込んで、望月は言葉遣いさえも一段下げる。
「へえ」助五郎は朴訥らしくもじもじ[#「もじもじ」に傍点]した。
「ああ、これから美倉《みくら》へ出て――」
「へえ、美倉橋を渡りますだ」
と言いながらさては浅草の和泉屋かと、助五郎は釣り出しを掛けて置いて後を待った。望月は好い気で、「橋を右へ折れて蔵前《くらまえ》か、へっへっへ」
蔵前の和泉屋、すると、あの質屋看板の物持和泉屋に相違ないが、そこの道楽息子が最近長唄の名取りになったところで、それが杵屋《きねや》であろうと岡安《おかやす》であろうと、別に天下の助五郎の興味を惹くだけの問題でもなかった。
決して物盗りではなく、又単なる力試しでもないことは大勢の通行人の中から又七だけを選んだことで充分解るとしても、要するにこれは芸人仲間の紛糾《いざこざ》から根を引いての意趣晴しに過ぎないかも知れない。若《も》しそうとすれば、わざわざ出て来た助五郎は、正にとんだ見込み外れをしたわけで、ここらであっさり手を離した方が案外利口な遣り方でもあろう――が、ともすれば、瓢箪《ひょうたん》から鯰《なまず》の出度《でた》がる世の中である。それに、ここまで来て手ぶらであばよ[#「あばよ」に傍点]は助五郎の世話役趣味がどうしても許さなかった。何よりも、あの不自然な又七夫婦の態度、すこし過分な、羽二重の熨斗《のし》、四日前の大浚え、それから暗打《やみう》ち――助五郎はにやり[#「にやり」に傍点]と笑った。一つの糸口が頭の中で見付かりかけた証拠である。足を早めて望月と並びながら、ずい[#「ずい」に傍点]と一本突っ込んだ助五郎には、もう持前の江戸っ児肌が返っていた。
「のう、家元さん、四日前にゃよく切れやしたの、え、おう?」
「――」望月は眼をぱちくりさせて立竦《たちすく》んだ。
「いやさ、絃がよく切れたということさ」
と助五郎は重ねて鎌を掛けた。
「え?」
「まあさ」と助五郎は微笑んで、「竪三味線《たてじゃみせん》は杵屋の誰だったっけ?」
「雷門《かみなりもん》。へへへへ」望月は明らかに度を呑まれていた。
「雷門、てえと竹二郎《たけじろう》師匠かえ?」
「へえ」
「蔵前へ近えな」
「へへへ、和泉屋さんの掛り師匠でげす、へえ」
「ふうん」助五郎はやぞう[#「やぞう」に傍点]で口を隠しながら、
「のっけ[#「のっけ」に傍点]から切れたろう――一番目は?」
「八重九重桜花姿絵《やえここのえはなのすがたえ》」
「五郎時宗《ごろうときむね》、お定《きま》りだ。こうっ、ぶっつり[#「ぶっつり」に傍点]来たろう」
「恐れ入りやす、へっへ、何せ最初《はな》からあの仕末なんで、下方連中は気を腐らすわ、雷門は頭《つむじ》を曲げるわ、和泉屋さんはおろおろ[#「おろおろ」に傍点]するばかり、へっへっへ、仲へ立った私のお開きまでの苦労と言ったら――して、あなた様は何誰《どなた》で?」
「誰でもええやな」
助五郎は空を仰いで笑った。が、直ぐ、
「家元、大薩摩紛《おおさつままげ》えのあの調子で、一体何処が引っ切れたのか、そいつがあっしにゃ合点が行かねえ」
「へっへ、御尤《ごもっと》もで」望月は伴《つ》れの人柄をもう読んだらしく苦しそうに扇子を使いながら、
「へえ、切れやしたの何のって、へっへ、先ずあの」と一つ咳払いをして、「里の初《しょ》あけのほだされやすくたれにひと筆《ふで》雁《かり》のって、そのかりいの[#「かりいの」に傍点]で、へっへ、ぶつりとね、へえ、雷門の糸が――どうも嫌な顔をしましてな」
「それゃそうだろう」
「それからまあ高調子《たかちょうし》でどうやらこうやらずうっと押して行きやしたがな、二上《にあが》りへ変って、やぶうの――う、うぐう――いいす、のとこで又遣りやした。へっへ、それからのべつ[#「のべつ」に傍点]に」
「切れたのけえ」
「へえ」
「笛は?」
「御存じでげしょう」
「乗物町か」
「へえ」
「何故入れた?」
「他にござんせん」
「うん、して和泉屋の咽喉《のど》は?」
「お眼がお高い――へっへ、あれからこっち円潰《まるつぶ》れでさあ、いや、本心」
それを聞くと助五郎はくるりと踵《きびす》を廻らして、元来た方へすたすた[#「すたすた」に傍点]歩き出した。喫驚《びっくり》して後見送っている望月を振り返りもせずに――。
「こりゃ乗物町の細工が利いたて」
助五郎は思わず独り言を洩らした。「昔なら十両からは笠の台が飛ぶんだ。へん、あんまり業突張《ごうつくば》りが過ぎらあな」
五
和泉屋の晴れの披露目《ひろめ》とあって、槙町《まきちょう》亀屋《かめや》の大浚えには例《いつ》もの通り望月が心配して下方連を集めて来たまでは好かったが、笛を勤めるのが乗物町の名人又七と聞いて、思い掛けない光栄に悦んだのが事情《わけ》知らずのその日の新名取《しんなと》り和泉屋の若旦那。又かと眉を顰《ひそ》めた者も多かったなかに、度々同じ段に座って又七の意地の悪い高調《たかちょう》に悩まされた覚えのある雷門の杵屋竹二郎は、自分の弟子の地《じ》ではあり、これは困ったことになったとは思ったものの、取替えて貰うわけには行かず第一あれ丈の吹手には代りもなし、仕方のないところから和泉屋を説き伏せて白羽二重一匹に金子《なま》を若干、その日の朝のうちに乗物町へ届けさせたのだった。笛に調子を破られては手も足も出ないので、又七の普段を識っている相下方の連中は、吾も吾もと付届けを運ぶことを忘れなかった。するだけのことを済ませば宜かろうと、竹二郎はおっかな喫驚《びっくり》のうちにも幾分の安心をもって舞台へ上ったのだったが、和泉屋からの贈りはそれで好いとしても、彼自身の名前で何も行っていないことに、竹二郎は気が付かなかったのである。
これが豊住又七をこじらしたものとみえて、その夜の笛は出からして調子が高かった。付いて行くためには、他の下方は勿論《もちろん》、唄の和泉屋まで急に加減を上げなければならなかった程、それほど約束を無視したものだった。が、それは未だよかった。はらはら[#「はらはら」に傍点]しながら竹二郎が、撥《ばち》を合せて行くうちに、一調一高《いっちょういっこう》、又七の笛は彼の三味を仇敵《かたき》にしていることが解って来た。そして、満座の中で何度となく彼は糸を切らせられたのである。しかも、新しい名取りの声は、旱《ひで》りの後の古沼のように惨めにも嗄《か》れて終《しま》った――。
それから四日経って又七の遭難。
こんなことには慣れているだけ、助五郎にはすべてが判った。和泉屋だって雷門だって世間態もあれば警察もこわい。で又七代理と偽って和泉屋と雷門の二軒へ据わりこんだ助五郎は大枚の金にありついて、一と月程は豪気に鼻息が荒かった。
あとから小博奕で揚げられた時の、これは天下の助五郎脅喝余罪の一つである。
[#地付き](一九二六年十二月号)
底本:「「探偵趣味」傑作選 幻の探偵雑誌2」光文社文庫、光文社
2000(平成12)年4月20日初版1刷発行
初出:「探偵趣味」
1926(大正15)年12月号
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2005年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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