ないことになったもんだ」と野田は背の高い岩佐に聞えるように呟いた。臨時工達は食事を取る設備をもっていない。彼等は今度の戦争がはじまる前頃から傭われ出した者許りだ。天気のよい日は工場裏の芝生に座って弁当をひらいた。工場のあっちこっちと追いまわされて全く疲れる。そして昼飯時にほっとする。のそりのそりと歩いていた岩佐は急に停って野田を待った。それから彼の云い分に調子を合せた。
「おまけに、八月になればしけるというではないか。停戦会議が成立して結局俺達臨時に御用済みにつき……と来るかも知れん」
「全く遣り切れんねえ。五月十六日から確かに一時間半は労働時間が殖えて来たしよ」
「――所が、君ッ!」
 そう云ったかと思うと、岩佐はいきなり野田の肩を抱きすくめた。力仕事に馴らされた岩佐の腕っ節が気持ちのわるいほど固く締めつけた。驚いている野田をぱっと突き放してから岩佐はがらがらと笑い出した。
「これがロシア式の友情だ。不景気知らぬソヴェート同盟を君は知ってるか?」
 野田は曖昧な眼つきで答えた。
「抱き合うのは男女と相場が定ってるんだが……」
「だから不景気で食えねえと愚痴っぽくなんのよ。ロシアの不景気知らずは俺がこの眼で見て来た本当の話なんだ」
「ヘえ――」と野田は呼吸をはずませた。
 工場裏の芝生では、安賃銀の臨時傭達が男女と混み合って粗末な弁当を開いていた。何時かは常傭工になれるだろうと、もう長い間戦争準備の陸軍食料工場でこき使われていた。
「ここには腐るほど食物がある。あの一片でも子供に持って帰れればなあ――」
「やって見ろ、ばさりだから」と横の若い女が首をすくめ乍らニコリと笑って「なア野田さん?」
 すると彼はどさっと女にくっついて蹲み、
「ちいちゃんこれさ」と抱きしめた。
「いやだねえ、この人は――」
「よう、よう、畜生ッ!」と皆が冷笑《ひやか》した。すると野田は真赤になって狼狽しながら、憐れな恰好で岩佐に救いを求めたのだ。
「ねえ、岩佐。その、これが不景気を追っ払う理由をよ。恥しくってお前え――」
「よーし……」と彼は弁当箱を膝から下して「この俺がソヴェートに出稼ぎして、この眼で見て来た話なんだ……」
 口まで持って行った箸をくわえてしまって、皆の眼が一斉に岩佐に注ぎ、話声がぴたりと止まった。



底本:「日本プロレタリア文学集・20 「戦旗」「ナップ」作家集(七)
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