してゐます。三人は女の子で私は末子だ。父の僅かな俸給で生活して行かねばならないので、母の苦労は一通りではなかつたのです。当時は今と違つて、金はなくとも役人といふ地位は世間から尊敬されたものであつたのですから、たとへ貧しいながらも、ブールジヨワ階級に属して而して母は「奥様《マダーム》」の権式を捨てたくなかつたのです。そこで母は勇気と切り盛りの巧みさと精励とで何一つ不足のないやうに家政をやり繰りして、行かなければならないので、今日の家庭の主婦の模範と呼ばれる人でさへも、かくまでは行届くまいと思はれるのです。三人の娘はいつも清楚な服装で頑童の僕さへきちん[#「きちん」に傍点]と整つた身なりをしてゐた。時たま親類や友達などが尋ねて来る際には茶も菓子も飛び切りの上等品を出したもので、世間づきあひなども一分のひけもとらない実に立派なものでした。だからこの奥様が下女同様に朝は五時に起きて台所から、家内の掃除、子供等の着物の灑ぎ洗濯迄、一人でするなどとは、誰一人思ふ者はなかつたのです。が月末になるとね……夕飯が極めて手軽でして……併しナプキンは貴族の食堂のそれの如くいつも、真白に光つてゐたものです。而して、夏は綺麗な、香気の高い花で、食卓が飾られてゐた。私が母の事を話しだしたら、それは明日になつたつて尽きやしません。
 母は快闊な人であつたので、家族のものの元気を引立てる為めに常時も働き乍ら笑つてをられた。本当ですよ! 最も窮迫の際には、平素よりも、更に一層元気でした。おかげで僕の家は金がない代り、いつも笑声満堂といふ有様でした。
 処が残念な事には、この苺園の桃や杏や李を母は手づから摘み採る事が出来るまで、長生きせられなかつたことです。若し生きてをられたらどんなに甘美《おい》しいジャムやコンポットが沢山に出来た事でせう! 而して母もこの野菜畑をどんなに喜ばれたでせう。」と詩人は暫時無言で……ひたすら回憶の深淵に沈潜すると云つたやうな様子であつた。成る程この屋敷の野菜畑は実際素晴しいもので、単に詩人の野菜園などといふものではなく、御料地の野菜畑とでもいふべきものだつた。見果てもつかぬ程の広さで、処々に二三百年の大樹が茂つてゐて、立派な並木道があつて、而して幾何学の図面のやうに規矩整然たる花壇や菜園には、大きな南瓜や、うまさうなサラダが時を得顔に繁茂してゐる。
 そこで、僕達はそろそろ文芸上の質問を出して、先づ最初に「テアートル・フランセーズ」の事を訊いてみた。すると先生は、
「私の力作はいづれもリシュリユ町で(コメデー・フランセーズ座を指す)初演した事がないのです。悪運がつきまとつてるとでも言ふのでせうか。」と口を切つて、而してその創作のセヴエロ・トレリーの来歴を次のやうに話された。
「その脚本を書き上げるや否や大急ぎで私は原稿をペラン(当時のコメデー・フランセーズの理事長)に手渡しました。処が、その挨拶が如何にも冷淡であつた。のみならず、二幕目のあたり場[#「あたり場」に傍点]で、『ビアがその子に懺悔する処』は芝居にならぬといふので私はむつ[#「むつ」に傍点]としてその原稿を取り返した。而して心の内で言つたのです。ふん、若し僕の脚本が右河岸(コメデー・フランセーズ座を云ふ、セーヌ河の右岸にあるから)で芝居にならぬといふなら、左河岸(オデオン座)でやらして見せよう! こん畜生! コメデー・フランセーズ座の前を通る乗合馬車はオデオン迄行くわい!
 と、そこで、私はオデオン行きに乗つた。当時のオデオン座の理事長ラ・ルーナ氏はペランの様に木で鼻をくくつた様ではなかつた。而してラ・ルーナ氏はその場ですぐに云ふのだつた。あなたの「セヴエロ」を頂戴する事にします。而して一週間内に稽古にかかりませう。
 その次ぎの脚本で、テアートル・フランセーズ座へ提出した『|王冠の為め《プール・ラ・クーロンヌ》』の経緯も亦セヴエロと同じ運命でしたよ。この新脚本は同座の委員会では余り歓迎されなかつた。併し私が無理にも願つたら、採用せられたのでせうが、私は頭を下げるよりはと思つて又もオデオン座行きの乗合馬車に乗つたのです。だからこれも初演はオデオン座でした。」
 コッペ先生はコメデー・フランセーズ座との経緯を右のやうに話して聞かされたのであるが、これは他の人達の言ふのとは少々違つてゐるやうであるから序乍《ついでなが》ら書き加へて置く。その説によればペランがコメデー・フランセーズの理事長であつた時分、コッペとコクランとの間に或る衝突があつてから以後は、コッペとコメデー・フランセーズ座との間はしつくり行かなくなつたといふのである。而して其の原因はずつと以前に溯ることで、当時コッペは、コメデー・フランセーズ座の図書係をしてゐたので、毎日午後から悠々と出勤したものであつた。
 コッペは親切で人好きはよい男だが、図書係りの職務には余り熱心といふ程ではなかつた。で、少しの隙さへあれば好きな小話《コント》を作つたり、詩作に耽つたりしてゐた。処が或日コクランがやつて来て図書館の書類の整理が不行届だなどぶつぶつ小言を言つた挙句に「図書係りは月給を貰つてゐないのか」と毒づいた。それを又コッペに告げ口した者があつたので、コッペは直ぐに辞職を申し出した。中に入つて色々となだめたり、すかしたりした人もあつたが、コッペは自分の威厳に関する問題だからといつて、頑として聴き入れず、たうとうコメデー・フランセーズの図書係を退職してしまつた。
 この事以来彼は決して外の内職などはせぬと決心して、一意文芸に精進した。そのお蔭で、懐工合も以前に比べて別段不如意になつたといふ訳でもなく、却つて自由に仕事が出来て仕合せだと、喜んでゐたといふ事だつた。これがコメデー・フランセーズ座とコッペの間柄について世間に一般に伝へられてゐる話である。
 脚本の経緯などにからまつて、話は知らぬ間に『苺園』を抜け出てゐた。
 と、急に気がついて、話を後に戻す。で、苺園を辞する前に、僕はコッペの働き振りが知りたかつたのだ。この詩人の好きな勉強時間は、朝なのか、夜なのか? 規則的であるか? 気の向き次第であるか? ゾラのやうに、前以て計画を立ててから、仕事に掛るのか、興味の湧いて来るのを待つてゐて、書くのかが知りたかつたのだ。
 すると先生の話はかうである。
「私の様な気まぐれ者はその時その時の出来心で働くのです。ともすれば私は一週間何にもする事が嫌《いや》で嫌でたまらない日があるのです……こんな田舎の閑静な処では、自分の思ふ様に続けて仕事をする事も出来ますが、巴里なぞでは、不意な事が突発するので、いや晩餐でござるの、夜会でござるのと、とても思ふやうには働けはしません。」
「先生はよくマッチルド公爵夫人の晩餐にお出になるやうですね。」
「公爵夫人のお邸の事に就いては色々な面白い事がありますよ。実の所をお話しすると、私が初めて燕尾服を作つたのも公爵邸へ招待された時なのです。大急ぎでね。あの頃はまだ私も若かつた! 私の作の「パッサン」がオデオンで初演の時、たしか千八百六十九年の春でした。公爵夫人がセングラチヤンの御別荘へ私をお招きになつたのですよ。私はおどおどしながら、御門の呼鈴を鳴らしたものです。門が開いた時は尚更胸の動悸がひどかつた。といふのは、大きな男が雷のやうな声して、私の前へにゆつと現はれたのです。この大男がギユスターブ・フローベルでした。今でもありありと其の時の彼の様子が眼の前に浮んで来ますよ。蒙古人のやうな鬚、真紅の頬、ノルマンデーの海賊のやうな青い眼、而して馬鹿にだぶだぶしたズボンを袴いて、レースの附いたシャツを着て、而して鏡のやうにぴかぴかよく磨かれた長靴を履いてゐたもんです。而してフローベルは、歩きながら偉らさうな身振りでボッシユエやモンテスキューやシヤトーブリヤンなどの文句を声高に吟誦するのです。而してその言ひ草がまた振つてゐるぢやありませんか。「どんな好い文句でも一度、自分の咽喉に掛けて見なければ分からぬ。」と云ふのです。思へば遠い昔の事ですよ! 実に光陰矢の如しです! もう三十年前の事です! 昨今のやうに思はれるのですが……



底本:「日本の名随筆74 客」作品社
   1988(昭和63)年12月25日第1刷発行
底本の親本:「随筆集游心録」第一書房
   1931(昭和6)年2月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2006年10月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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