開いた時は尚更胸の動悸がひどかつた。といふのは、大きな男が雷のやうな声して、私の前へにゆつと現はれたのです。この大男がギユスターブ・フローベルでした。今でもありありと其の時の彼の様子が眼の前に浮んで来ますよ。蒙古人のやうな鬚、真紅の頬、ノルマンデーの海賊のやうな青い眼、而して馬鹿にだぶだぶしたズボンを袴いて、レースの附いたシャツを着て、而して鏡のやうにぴかぴかよく磨かれた長靴を履いてゐたもんです。而してフローベルは、歩きながら偉らさうな身振りでボッシユエやモンテスキューやシヤトーブリヤンなどの文句を声高に吟誦するのです。而してその言ひ草がまた振つてゐるぢやありませんか。「どんな好い文句でも一度、自分の咽喉に掛けて見なければ分からぬ。」と云ふのです。思へば遠い昔の事ですよ! 実に光陰矢の如しです! もう三十年前の事です! 昨今のやうに思はれるのですが……
底本:「日本の名随筆74 客」作品社
1988(昭和63)年12月25日第1刷発行
底本の親本:「随筆集游心録」第一書房
1931(昭和6)年2月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2006年10月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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