しなかった夫の気質を熟知している夫人の胸中には、次の如き思想が往来した。学者がその生前において未だ不完全なりとして公にしなかった草稿を、その妻が出版するということは、その夫に対する敬順の義務を破るものではあるまいか。自己の余生を亡き夫の遺業の完成のために委《ゆだ》ねるは、なお在《い》ます夫に事《つか》うる如き心地がして、この上もない楽しみではあるけれども、これはあるいは我慰安を求めて夫の遺志に違《たが》うものではあるまいか。かく煩悶した結果、夫人はいっそ夫の事業を我骨とともに永久に埋めて仕舞おうとまで決心したこともあったが、しかしながら、また翻って考えてみると、かくの如き偉人の事業を湮滅《いんめつ》せしめるのは、人類に対する義務にも反するものかと思われる。夫がなお不完全なりとして公刊しなかったのは、主としてその形式体裁の未だ整わなかったためであって、その学説については牢乎《ろうこ》たる確信を持っておった事は明らかであるから、もし夫の生前において未だ広く容れられなかった学説が、その妻たる自分の尽力に依って、夫の死後に至って認められ、また後進をも益するようになったならば、彼世における夫の満
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