随ってその治世についても、多数の学者は五十五年であると言うておるが、四十三年であると言う人もある。我輩門外漢は素《もと》よりその孰《いず》れに適従すべきかを知ることは出来ぬが、かような事は必ずしも多数説が正しいということは出来ぬは勿論である。一通り読んでみたところに依れば、二一〇〇年代説および四十三年説の方が論拠が強いように見える。ハムムラビ王は即位以後三十年間は鋭意治平の術を講じ、祭祀を尚《たっと》び、民の訟を聴き、運河を通ずるなどの事をなし、民心和し国力充実したる後ち、第三十年目に至って四隣征服の役《えき》を起し、数年にしてバビロン全部を統一した。この征服戦以前においては、ハムムラビの王国はバビロンの北部一半であったが、この戦争のためその南部諸市府を併せたのである。ハムムラビ王の石柱法典は、このバビロン統一戦争の後における治安策および統一策のために制定せられたもので、王の晩年の事業であるということは、法典の前文中に征服した諸市府の名が記してあるのみならず、後文中に王が既に老年に達していると言うておる文章が二箇所あるに拠っても明らかである。

  八 ハムムラビ法典とモーゼの法律


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