た》えたということである。
大正四年の夏より秋に掛けて上野|不忍《しのばず》池畔に江戸博覧会なるものが催された。その場内に大岡越前守|忠相《ただすけ》の遺品が陳列してあったが、その中に子爵大岡忠綱氏の出品に係る鑷《けぬき》四丁があって、その説明書に「大岡越前守忠相ガ奉行所ニ於テ断獄ノ際、常ニ瞑目シテ腮髯《あごひげ》ヲ抜クニ用ヒタルモノナリ」と記してあった。その鑷は大小四丁あって、その一丁は約七寸余もあろうかと思われるほどで、驚くべき大きさのものである。その他の三丁も約五寸|乃至《ないし》三寸位のもので、今日の普通の鑷に較べると実に数倍の大きさである。芝居では「菊畑」の智恵内を始めとし、繻打奴《しゅすやっこ》、相撲取などが懐から毛抜入れを取出し、五寸ばかりもあろうと思う大鑷で髯《ひげ》を抜き、また男達《おとこだて》が牀几《しょうぎ》に腰打掛けて大鑷で髯を抜きながら太平楽《たいへいらく》を並べるなどは、普通に観るところであるが、我輩は勿論これは例の劇的誇張の最も甚だしきものであると考えておったが、この出品が芝居で見るものよりも一層大きい位であるから、当時はこのような大鑷が普通であったものと見える。これについても、今をもって古《いにしえ》を推すの危険な事が知れる。
余談はさておき、大岡忠相が髯を抜いたのも、板倉重宗が茶を碾《ひ》いたのも、その趣旨は全く同一で、畢竟その心を平静にし、注意を集中して公平の判断をしようとする精神に外ならぬのである。髯を抜きながら瞑目して訟を聴くのも、障子越に訟を聴くのと同じ考であろう。司直の明吏が至誠己を空《むな》しうして公平を求めたることは、先後その揆《き》を一にすというべきである。
*
大正四年十一月四日相州高座郡小出村浄見寺なる大岡忠相の墓に詣でて
問ひてましかたりてましをあまた世をへたててけりな道の友垣
[#改ページ]
四〇 模範的の事務引継
板倉重宗が京都所司代を辞職した時には、大小の政務|悉《ことごと》く整理し尽し、出訴中の事件は皆裁決し了《おわ》って、一も後任者牧野佐渡守を煩すべきものを遺さなかったが、ただ一つ、当時評判の疑獄であって、世人の眼を聳《そばだ》ててその成行を見ておった一事件のみは、そのままにして引継いでしまった。そこで口善悪《くちさが》なき京童《きょうわらわ》は、「周防殿すら持て余したこの訴訟、佐渡殿などには歯も立つまい」と口々にいい囃《はや》したが、さて佐渡守が職に就いて、その裁決を下したのを見れば、調査は明細、判断は公平、関係人諸役人を始めとして、不安の眼で眺めておった満都の士民を、あっといわせたので、周防殿にも勝る佐渡殿よとの取沙汰|俄《にわか》に高く、新所司代の威望信任はたちどころに千鈞の重きを致したという。
そもそもこの疑獄については、重宗は夙《はや》くより最もその意を注いで、調査に調査を加え、既に判決を下すばかりになっていたものであるが、辞職の際の事務整理に、故《ことさ》らにこれのみを取残し、詳細なる意見書を添えて佐渡守に引継ぎ、佐渡守はただ板倉の意見をそっくりそのまま自分の名で発表したのに過ぎないのであった。掉尾《とうび》の大功を惜しげもなく割愛して、後進に花を持たせた先輩の襟懐《きんかい》、己を空しうして官庁の威信を添えた国士の態度、床しくもまた慕わしき限りではないか。
[#改ページ]
四一 オストラキズムス
いやしくもギリシア史を読んだものは、アテネの名士テミストクレス(Themistocles)がオストラキズムス(Ostracismus)を行って、政敵アリスティデス(Aristeides)を追放し、心のままに自家の経綸《けいりん》を施して、大敵ペルシアを破ったことを知っているであろう。このオストラキズムスとは如何なるものであったか。
ギリシア諸邦ことにアテネなどにおいては、民主主義の結果として、中央政府の勢力は極めて微弱で、一兵を動かす権力をすら持っていなかった。故にもし一人の野心家があって民心を収攬し得たならば、政府を顛覆するは、一挙手の労に過ぎないのである。紀元前五〇九年、アテネのクレイステネス(Cleisthenes)がオストラキズムスなる新法を設けたのも、在野政治家の勢力を二葉《ふたば》のうちに摘み取って、斧を用いてもなお且つ及ばざる危険に到ることを予防する目的であったのである。
オストラキズムスは一種の弾劾投票である。毎年第一回の民会において、先ずこれを行うの必要ありや否やの議決を求め、もし積極に決したならば、次回の民会において、執政官および五百人会議員立会の上、各市民をして弾劾に当るべき人を投票せしめるのである。投票は牡蠣《かき》の一種の貝殻に記すのを例とした。その貝をオストラコン(Ostrac
前へ
次へ
全75ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
穂積 陳重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング