泣唐フ国会議事堂において国際法の万国会議が開かれた時、丁度その頃、我輩はドイツに留学中であったので、日本における治外法権廃止の提議をなさんがために同会に出席したことがあった。イギリスからは公使森有礼君、法学士西川鉄次郎君、オーストリヤからは書記官河島醇君も出席した。
この会において最も議論のやかましかったのは、国際版権問題で、就中《なかんずく》イギリスの議員は版権の国際的効力を保障する条約の必要を主張し、アメリカの議員は烈しくこれに反対した。
ニューヨルクの弁護士某氏は、熱弁を掉《ふる》ってイギリスの前国会議員某氏の国際条約必要論を駁撃し、「真理は人類の公有物である。これを発見し、これを説明する者は、その人類に与うる公益と、これに伴う名誉とをもって満足すべきである。何ぞ必ずしも利を貪《むさぼ》って、真理普及の阻止せらるるを欲すべきものならんや。諸君、請う学者と書籍製造販売者とを混ずること勿《なか》れ」という調子で滔々《とうとう》と述べ立てると、前国会議員の某は、頻《しき》りに頭を左右に掉《ふ》って不同意の態度を示した。すると直ちにその頭を指さして、
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“He shakes his head, but there is nothing in it!”
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と叫んだ。これは素《もと》より「彼は頭を掉っているが、それには何も意味のある訳ではない」という意味であるが、また「彼は頭を掉っているが、しかしあの頭の中は無一物である」とも解せられる。前議員某氏は激怒の相を現わし、その禿頭より赤光を放射した。他の会員は思わず失笑する者もあり、顰蹙《ひんしゅく》する者もあった。痛烈骨を刺す皮肉、巧みは則ち巧みであるが、かかる場所柄、少しひど過ぎると、我輩はその時に思うた。
かくてその後も、右は同弁護士の機智に出でたる米国式の論弁法であると思って、人にも話した事であったが、爾来三十余年を経過して、大正四年の夏に至り、カランの逸話を読んでいると、偶然にも左の一項に遭遇した。
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或時カランが陪審官に対《むか》ってその論旨を説明していると、裁判官が頻りにその頭を掉った。するとカランの言うには、「諸君、余は判事閣下の頭の動くのを見る。これを観る者は、あるいは閣下の御説が余輩の所説と異なっていることを示すものであると想うかも知れない。けれども、あれは偶然の事です。」
“Believe me, gentlemen, if you remain here many days, you will yourselves perceive that when his Lordship shakes his head, there's, nothing in it.”
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これに依って観ると、我輩がさきにアメリカ式と思うたのは、実はアイルランド式であって、かの某弁護士は、あるいは我輩より数十年前に既にカラン伝を読んでおったのかも知れない。
我輩はこのカランの逸話を読んで、三十年来の誤信を覚《さと》ったとき、つくづく吾人の知識の恃《たの》み難きものなることを嘆じ、更に自疑反省の必要の大なること感じた。
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三六 女子の弁護士
昔ローマでは、女子が弁護士業を営むのを公許したことがあって、ホルテンシア(Hortensia)、アマシア(Amasia)などという錚々《そうそう》たる者もあったとか。しかるに、アフラニア(Afrania)という女子弁護人に、何か醜行があったために、忽ち女性弁護士禁止の説を惹き起し、遂にテオドシウス帝(Theodosius)をして、その法典中に禁令を加えしむるに至った。この論法をもって推すならば、男子にも弁護士業を禁ずることにせねばなるまい。
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三七 処分可レ依二腕力一[#「レ一二」は返り点]
「古事談」に次の如き一奇話が載せてある。
覚融《かくゆう》僧正臨終の時に、弟子共が、遺財の処分を定め置きくれよと、頻りに迫った。僧正は一代の高徳、今や涅槃《ねはん》の境に入って、復《ま》た世塵の来り触るるを許さないのであるが、余りにうるさく勧められるので、遂に筆硯《ひっけん》を命じて一書を作り、これを衆弟子に授けて後《の》ち入寂《にゅうじゃく》した。衆弟子、その遺書に基づいて分配をなさんものと、打寄ってこれを開き見れば、定めて数箇条の定め書と思いの外、
[#ここから2字下げ、「レ一二」は返り点]
処分可レ依二腕力一
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の六字を見るのみであった。衆僧これには大いに閉口し、まさかに掴《つか》み合いをする訳にも往かぬと、互に円い頭を悩しているとのことが、白河法皇の叡聞《えいぶん》に達し、遂に勅裁をもって
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