ッを苦しめ、あるいは乱を思い不軌《ふき》を謀る者さえ生じたのは、けだし自然の勢ともいうべきであろう。関ヶ原の役に、西軍の将の封《ほう》を失う者八十余人、その結果浮浪の徒が天下に満ち、後の大阪陣には、これら亡命変を待つの徒が四方から馳せ集ったために、一時大阪の軍気の大いに振ったことは人の能《よ》く知るところである。また島原の乱にも、小西の遺臣を始め九州の浪人が多くこれに加わったので、竟《つい》に幕府をして大兵を動かさしめるようになった。正雪《しょうせつ》の陰謀事件の際にも、これに加担して天下の大乱を起そうと企てた浪人の数は、実に二千余人の多きに及んだということである。
 浪人は社会の危険分子である。大阪両度の陣、島原の乱、共に浪士の乱ともいうべきものであったから、幕府は浪人の取締を厳重にする必要を認め、特に島原の乱の起った寛永十四年から五人組制度を整備し、比隣検察の法を励行したことは、我輩の「五人組制度」中に論じて置いたところである。既にして、慶安四年に由井正雪の陰謀が露現した後ち、幕府は従来の大名取潰しの政策が意想外の結果を招き、これがためにかえって危険分子を天下に増殖するものであるということに気づき、警察法をもってその末を治めるよりは、むしろその源を塞いで大名取潰しの政策を棄て、浪人発生の原因を杜絶する方がよいということを悟るに至った。
 しかるに、前にも述べた如く、幕府が大名取潰しの原因として利用したものの中で、末期養子の禁はその最も著しいものであって、慶安以前に種々の原因に依って除封または減封せられた諸侯の総数百六十九家の中、六十七家は嗣子の無いために断絶せられ、または特恩をもって減禄に止められたものであるから、これがために夥《おびただ》しい浪人を出したことも明らかである。
 そこで、由井正雪《ゆいしょうせつ》陰謀事件が慶安四年十一月二十九日|丸橋忠弥《まるばしちゅうや》らの処刑で結了すると、幕府は直ちに浪人の処分の事を議した。十二月十日に白書院で開いた閣老の会議では、酒井|讃岐守忠勝《さぬきのかみただかつ》が浪人江戸払のことを発議し、阿部豊後守忠秋の反対論でその詮議は熄《や》んだが、その翌日に養子法改正に関する法令を発し、五十歳以下の者の末期養子は[#以下「レ一二」は返り点]「依二其筋目一」または「依二其品一」これを許し、跡式を立てしめることとした。故に慶安の養子法改正以後には、諸大名の嗣子無くして死んだためにその家の断絶した例は追々少なくなり、末期養子の禁は爾後《じご》次第に弛《ゆる》んで、天和年間に至ると、五十歳以上十七歳以下の者の末期養子でも、「吟味之上可レ定レ之」と令するに至った。とにかく、慶安以後の法令には「依二其筋目一」とか「依二其品一」とか「吟味之上」とかいう語があって、絶対の禁を弛《ゆる》べたのみならず、その実これを許さなかった例は極めて稀であったのである。随って浪人の数も著しく減少するようになり、正雪事件以後には、浪人の乱ともいうべきものは全くその跡を絶つに至った。
 「君臣言行録」の記すところに拠れば、この慶安の養子法改正は、敏慧周密をもって正雪、忠弥等の党与の逮捕を指揮した、かの「智慧伊豆」松平伊豆守信綱の献策であるということである。
 なおこの事に関する我輩の考証は、先頃帝国学士院に提出し、「帝国学士院第一部論文集」第一号として出版されているが、それらは余り細かい事に渉っているから、今はその大筋だけを話して置くのである。
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 九六 梅博士は真の弁慶


 民法起草委員の一人であった梅謙次郎博士は、非常に鋭敏な頭脳を持っておって、精力絶倫且つ非常に討論に長じた人であった。同君は法文を起草するにも非常に迅速であったが、起草委員会において、三人がその原案を議するときには、極めて虚心で、他の批評を容れることいわゆる「流るるが如く」で、即座に筆を執って原稿を書き直したものであった。しかるに原案が一たび起草委員会で定まり、委員総会に提出せられると、同君はその雄健なる弁舌をもってこれに対する攻撃を反駁し、修正に対しても、一々これを弁解して、あくまでもその原案を維持することに努めた。時としては、余り剛情であると思い、同じ原案者なる我々から譲歩を勧めたこともあった。同君の弁論の達者なことは、法典調査会の始めの主査委員会二十回および総会百回に、同君の発言総数が、三千八百五十二回に上っている一事でも分る。
 或時、委員の一人にて、これも鋭利なる論弁家であった東京控訴院長長谷川|喬《たかし》君が、総会の席上で原案の理由なきことを滔々《とうとう》と論じていると、梅君はその席から「大いに理由がある」と叫んだ。すると長谷川君は梅君の方を振向いて、「君に言わせると何でも理由がある」と反撃した。これは素より心易い
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