れに答えて、「人尽夫也、父一而已」といった。
[#ここで字下げ終わり]
という記事と、更にまた「論語」子路篇の、
[#ここから2字下げ、「レ一二」は返り点]
葉公語二孔子一曰、吾党有二直レ躬者一、其父攘レ羊而子証レ之、孔子曰、吾党直者異レ於レ是、父為レ子隠、子為レ父隠、直在二其中一矣。
[#ここで字下げ終わり]
という本文などを立論の根拠として、父の悪事を訴えた者は死罪に処すべきであるという断案を下した。
しかるに、白石はこれに対して、長文の意見書を幕府に上《たてまつ》り、かくのごとき場合には、父の悪行を知ってこれを訴えてもなお罪がないものであるということを委細に論じた。その意見書は「決獄考」という書に載せているが、その論旨は概略次の如きものである。
[#ここから2字下げ]
君父夫の三綱は、人倫の常においては何れも尊きものであって、その間に差などはないものである。しかしながら、人倫の変に当り、その間に軽重を設けてその一に適従する必要を生じた場合には、一の標準を発見してこれに拠らなければならない。本件は父と夫との中果して何れが重親であって、随ってこれに従うべきものであるかという問題を決定しようとするものであるが、余は今シナの喪服制を標準として、これを定めようと思うのである。即ち「儀礼《ぎらい》」に、女子が既に許嫁してなお未だその室にいる間に父が死亡した時には斬衰《ザンサイ》三年(斬衰は五種の喪服中最高等の喪服であって、その縫方など万事粗略で、布も下等の品を用うるのである、即ち悲哀の最大なることを示している)、既に嫁した後に父が死亡した時には、斉衰《シサイ》不杖期に服し(斉衰は第二等喪服であって、斬衰の場合よりは布の地も良く、縫方なども較々《やや》丁寧になっており、即ち悲哀の較々小なることを示しているのである。不杖期というのは、悲しみがあまり大でないから、杖を要しないことをいうので、喪の期間は一年である)、そして妻は夫のためには斬衰三年の喪に服するのであるからして、既に嫁した後は、夫の方が父よりも重いのである。即ち女子は父の家にいる間は父を天とし、既に嫁した後ちは夫を天とするものであって、父が自分の夫を殺害するが如き人倫の変に際しては、たとい父に背いても夫には背くべきものではないのである。いわんや、この場合の如く、下手人の何人なるかを知らずに告発し、後ちに至って自分の父を告発しているような結果になった如きに至っては、罪なきは勿論のことで、たとい自分の父が下手人なることを知っていて告訴したのであっても、罪ありとすべきでないのである。その女《むすめ》が、告発後自殺するならば、夫に対しては義を守り、父兄に対しては孝悌の道を尽す者であるということが出来るけれども、これは備《そなわ》らんことを人に責めるものであって、普通人には無理な註文である。いわんや林大学頭が引証した「左伝」の語は、左氏が不義を戒める趣意で書いたものであって、決して論拠となすことは出来ない。
[#ここで字下げ終わり]
白石はなおこの他にも広く古典および支那の歴史などを引用して詳論するところがあったので、遂にその意見が採用せられることとなって、秋元但馬守は、甚五兵衛および四郎兵衛を下手人として死刑に処し、訴人「むす」は尼になるように宣告した。その判決文は左の通りである。
[#28字下げ]甚五兵衛
[#28字下げ]四郎兵衛
[#ここから2字下げ、「一二」は返り点]
右両人之者、聟《むこ》伊兵衛を父子申合しめ殺候由致二白状一候に付、解死人《げしにん》として死罪申付者也。
[#天から28字下げて]む す
[#ここから2字下げ、「一二」は返り点]
右は夫伊兵衛川中に死し有之を見出し、訴出候処、父甚五兵衛兄四郎兵衛両人にて殺候儀致二露顕一、親兄共に解死人として死罪に罷成《まかりなり》候、夫殺され親兄死罪に罷成候上は、其身も尼に致させ、鎌倉松ヶ岡東慶寺へ差遣候。
卯十月二十七日[#「19字下げて地より3字上げで]秋元但馬守
[#ここで字下げ終わり]
今日より見れば、本件の「むす」なる婦人の罪なきことは、固より明々白々の事であって、鳳岡・白石の二大儒がかくの如くその脳漿《のうしょう》を絞って論戦するほどのことではないようであるが、当時支那道徳が形式上甚だしく尊重せられておったことと、且つは徳川幕府が総べて主人その他尊長に対する罪科を特に重大視してこれを厳罰する方針であったために、かくの如き論戦を惹起したものであろう。
[#改ページ]
八○ 罪の語義
「ツミ」なる語の意義については、本居宣長|大人《うし》の「大祓詞後釈」を始めとして、古来種々の解釈が試みられているが、伊勢貞丈の「安斎随筆」には「つめる」にて即ち「膚を摘み痛むるより起る詞なるべし」という意見
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