け、国法の重んずべきこと、また一私人の判断をもってこれに違背するは、即ち国家の基礎を覆さんとするものであるということを論じ、更にクリトーンに向って、
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我らはこれに答えて、「しかれども国家は已《すで》に不正なる裁判をなして余を害したり」と答うべきか。
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と言い、クリトーンが、
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勿論です。
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と言ったのに対して、
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しからば、もし法律が、ソクラテスよ、これ果して我らと汝と契約したところのものであるか。汝との契約は、如何なる裁判といえども国家が一度これを宣告した以上は、必ずこれに服従すべしとの事ではなかったかと答えたならば如何に。
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と言い、更にまた、たとい悪《あ》しき法律にても、誤れる裁判にても、これを改めざる以上は、これに違反するは、徳義上不正である所以《ゆえん》の理を説破し、なお進んで、
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凡そアテネの法律は、いやしくもアテネ人にして、これに対して不満を抱く者あらば、その妻子|眷族《けんぞく》を伴うて、どこへなりともその意に任せて立去ることを許しているではないか。今、汝はアテネ市の政治法律を熟知しながら、なおこの地に留っているのは、即ち国法に服従を約したものではないか。かかる黙契をなしながら、一たびその国法の適用が、自己の不利益となったからといって、直ちにこれを破ろうとするのは、そもそも不正の企ではあるまいか。汝は深くこのアテネ市を愛するがために、これまでこの土地を距《はな》れたこととては、ただ一度イストモスの名高き競技を見るためにアテネ市を去ったのと、戦争のために他国へ出征したこととの外には、国境の外へは一足も踏み出したことはなく、かの跛者や盲人の如き不具者よりもなお他国へ赴いたことが少なかったのではないか。かくの如きは、これ即ちアテネ市の法律との契約に満足しておったことを、明らかに立証するものではあるまいか。且つまたこの黙契たるや、決して他より圧制せられたり、欺かれたり、または急遽の間に結んだものではないのであって、もし汝がこの国法を嫌い、あるいはこの契約を不正と思うたならば、このアテネ市を去るためには、既に七十年の長年月があったではないか。それにもかかわらず、今更国法を破ろうとするのは、これ即ち当初の黙契に背戻《はいれい》するものではないか。
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と言うて、縷々《るる》自己の所信を述べ、故にかかる契約を無視すれば、正義を如何にせん、天下後世の識者の嗤笑《ししょう》を如何にせん。もしクリトーンの勧言に従って脱獄するようなことがあれば、これ即ち悪例を後進者に遺すものであって、かえって彼は青年の思想を惑乱する者であるという誹毀者らの偽訴の真事であることを自ら進んで表白し、証明するようなものではないかといい、更に、
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正義を忘れて子を思うことなかれ。正義を後にして生命を先にすることなかれ。正義を軽んじて何事をも重んずることなかれ。
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と説き、滔々《とうとう》数千言を費して、丁寧親切にクリトーンに対《むか》って、正義の重んずべきこと、法律の破るべからざることを語り、よりてもって脱獄の非を教え諭したので、さすがのクリトーンも終《つい》に辞《ことば》なくして、この大聖の清説に服してしまったのである。
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 七 大聖の義務心


 古今の大哲人ソクラテスが、毒杯を仰いで、従容《しょうよう》死に就かんとした時、多数の友人門弟らは、絶えずその側に侍して、師の臨終を悲しみながらも、またその人格の偉大なるに驚嘆していた。
 ソクラテスは鴆毒《ちんどく》を嚥《の》み了《おわ》った後《の》ち、暫時の間は、彼方此方《あちらこちら》と室内を歩みながら、平常の如くに、門弟子らと種々の物語をして、あたかも死の影の瞬々に蔽い懸って来つつあるのを知らないようであったが、毒が次第にその効を現わして、脚部が次第に重くなって冷え始め、感覚を失うようになって来た時、彼は先《さ》きに親切なる一獄卒から、すべて鴆毒の働き方は、先ず足の爪先より次第に身体の上部へ向って進むものであるということを聞いておったので、自分で自分の身体に度々触れて見ては、その無感覚の進行の有様を感じておった。そうして、それが心臓に及ぶと死ぬるのであると言うておったが、やがてそれが股まで進んで来た時、急に今まで面に被っていた布を披《ひら》いて、クリトーンを顧みて次の如く語った。
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クリトーンよ、余はアスクレーピオスから鶏を借りている。この負債を弁済することを忘れてはならぬ。(プラトーンの「ファイドーン」編第六十六章)
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