しなり。朝夕《ちょうせき》水を用いてその剛軟を論じながら、その水は何物の集まりて形をなしたるものか、その水中に何物を混じ何物を除けば剛水《ごうすい》となり、また軟水《なんすい》となるかの証拠を求めず、重炭酸|加爾幾《カルキ》は水に混合してその性を剛ならしめ、鉄瓶等の裏面に附着する水垢《みずあか》と称するものは、たいてい皆この加爾幾なりとの理は、これを度外におきて推究したる者あるを聞かず。今日にありても儒者の教に養育しられたる者は、これらの談を聴きて瑣末《さまつ》の事なりと思うべけれども、決して然らず。
欧州近時の文明は皆、この物理学より出でざるはなし。彼の発明の蒸汽船車なり、鉄砲軍器なり、また電信|瓦斯《ガス》なり、働の成跡は大なりといえども、そのはじめは錙朱《ししゅ》の理を推究分離して、ついにもって人事に施したる者のみ。その大を見て驚くなかれ、その小を見て等閑《とうかん》に附するなかれ。大小の物、皆《みな》偶然に非ざるなり。人にして物理に暗く、ただ文明の物を用いてその物の性質を知らざるは、かの馬が飼料を喰《くろ》うて、その品の性質を知らず、ただその口に旨きものはこれを取りて、然らざ
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